R-T-X 「8・過去と青年(上)」
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 弥彦の選択から一週間がたった。
 立ち会った人々は、ギルの指揮下のメンバーとして改めて〈軍部〉に登録された。アキオは彼らの管理下にある重要参考人として、三条は第三者登録の能力者および連続殺人事件における民間協力者として、だ。
 佐々木柚実も〈特務〉の一員として辞令を受けることになった。もちろん、彼女はまだ見習いとして準職員の扱いだが、一年後には正式採用されることとなるだろう。ギルの進言で至急、第三者登録の手続きが取られたので、第三者登録のメンバーとして扱うこともできる。
 ギルはなぜか、これから起こるであろう大災害に彼女を立ち会わせることにこだわっていた。付き合いの長いはずの〈赤目〉さえも首を傾げるその執着に、木伏は不安を覚えずにはいられなかった。
 自身が素人から軍に入っただけに、知識の全く無い女子高生を、危険な〈フリーク〉との戦いに巻き込むことが、他の〈特務〉メンバーにとってマイナスにならないかと懸念したのだ。
 些細なミスの一つが、〈フリーク〉の怪力の前に、無防備に立ち尽くすはめになる事もある。柚実に恨みは無いが、戦闘経験の浅い素人を投入した事によって、そういった悲劇が現実として起こるかもしれないのだ。
 人事の問題で事前に回避できることであるならば――それが柚実を今回の災害に巻き込まないことで出来るなら、そうするべきだと木伏は思っているのだが、ギルの考えは違うらしい。例のごとく、理由など何も語ろうとはしないのだが。
 最初こそ、急激な環境の変化についていけず放心状態に陥っていた柚実だったが、それもこの一週間でだいぶ回復できたようだ。
 誰も何も言わなかったが、その変化の立役者は、「柚実が監視している対象」という名目で傍に付きっ切りで面倒を見ていたアキオである事は明白だった。
 反応の薄い柚実に細々と話しかけ、〈軍部〉の仕組みから生活スタイル、食事はもちろん制服の手入れの仕方まで、身内から切り離されたばかりで心細い彼女の為に、彼は全てを手取り足取り指導していた。
 民間組織の人間であるはずなのに、公開されているはずの無い軍の内情まで知り尽くしているアキオの知識と言葉には――「魔術師」や「150年前から生きてる」という、〈赤目〉はともかく木伏にはまだ納得できない言葉を裏付けできそうなだけの――「生活によって身についた知識」を実感させる、地に足の着いた指導者の確かさがあったのだ。その確かさが、フワフワとした現実感のない現実に放り出された柚実の拠り所になったのだろうか。
 言葉こそ浮ついているが、アキオは柚実に対して真摯に向き合っていたし、それは皆も察していたから、誰もが安心して彼女を任せることができたのだ。
 もちろん、彼自身曰く「〈西方協会〉のスカウトマン」なのだから、柚実が〈西方協会〉に引き抜かれる懸念はあった。だが、少なくとも木伏は、柚実が〈西方協会〉でアキオの保護下で静かに過ごせるようになるのなら、その方が良いのではないかとすら考えていた。ギルの思惑はわからなかったが、〈赤目〉=三条ならそう頑なに反対することはないアイディアにも思えた。
 そんな木伏の思いも知らずに、アキオは柚実の気持ちや生活が落ち着いたところで――もちろん、ギルの許可を得た上で、だったが――基礎的な軍事用語と知識を教えはじめていた。
 どちらが捕虜でどちらが監視者かわからない二人だったが、少なくとも柚実は、新しい環境に慣れるべく日々の活動に追われていた。

 柚実を心配する木伏だったが、本来、先輩として指導するべき彼女が柚実の回復行動に関われなかった事には理由がある。
 弥彦の回復を待っていたからだ。
 弥彦は合一後に気を失って以来、目を覚ましていなかった。
 ギルと〈特務〉の医師達の判断によれば、身体的な機能に問題はないという。おそらく――〈特務〉の収集した能力者のデータから察するに――合一後に目覚めた時、能力者になっている自分が怖いのではないかという。
 ドッペルゲンガーによる能力者への転向という現象は、確かに現代においては珍しい事ではある。
 しかし、自分の周りで起こっている異常――個人の意思による特殊な現象つまり能力の発露――に気づいた時、「自分が能力者になってしまったのではないか」、「自分が自分ではなくなってしまったような気がする」という感想を抱く者も少なくない事がわかっている。
 「〈人格波動〉の過剰発露が能力の正体である以上、その感覚は間違いではない」とギルは言う。自分自身の意思をを保つエネルギーが過剰にあふれれば、自分自身だと思ってた輪郭が歪むのだというのだ。それは自我の範囲が大きく鋭利に研ぎ澄まされたような、または逆に強張り鈍磨したような、感覚的な錯覚を伴う。それ故に、その変化を抑えきれない体と脳が現実逃避を選択し、一定の理解と諦観を得るまでの数日間を、仮死状態にも似た眠りに費やす人々も少ないながらも存在するのだ。
 弥彦もその一人だということらしい。
 身体的な変化に頭がついて行かないと言われれば、そして相手が弥彦だと考えれば、一応の納得が行く話ではある。白兵戦のエキスパートであり、能力を持たなかった弥彦の身体だ。身体の隅々まで、全ての感覚を自分の運動能力の制御の為に把握してきたのだろう。無自覚だったとしても。その身体に、把握しきれない部分が生じた時、脳が事態を整理するべく全力で処理を開始したのに違いない。そして、それは彼の意識をも含めたほぼ全ての身体機能を停止した上で行わなければならないほど、大きな変化であったのだろう。通常の人間が意識しない身体の細部までをも神経を張り巡らせてきた戦士である弥彦の身体には、精密機械であるが故の繊細さも内包されているのだ。
 結局、彼の脳が納得できるまで、眠らせておくしかないのだ。少なくとも、ギルや〈特務〉専用病院のスタッフはそう考えている。皆がもどかしく感じながらも、彼が目覚める時を待つしかない。
 弥彦が抜けた分、木伏はギルの部下としてのサポートだけではなく、彼の入院手続きや見舞い、体調についての報告を半日おきに作成せざるを得なくなった。
 その報告の為、何度も眠り続ける弥彦の元へ足を運ばざるを得ない。Bクラス警備部の活動である市街地の見回りも、装備の手入れも、弥彦のシフト分をキャンセルするよう手配しなくてはならなくなり、その手続きも、他の小隊との兼ね合いでずれたシフトの分のツケも、全部一人でこなさなければならなくなったのだ。
 ギルはこの異常事態の発生に対する警告と対策の為、そして〈西方協会〉との共闘戦線の必要性を上層部に納得させる為、連日会議に追われている。相談しようとしても「うるさい、それぐらい一人でやれ」の一言で、仮に弥彦の代わりの追加の人員が来るとしても、いつ配属になるかわからない。
 ならばと〈赤目〉=三条に目を向ける木伏なのだが、こちらはどうも様子がおかしい。ぼんやりと中空を眺めていたり、かと思えば怒ったような顔でギルからの指示を確認したり。トレーニングと地理の確認と称して市街地へ走りに出たり。
 たまにトレーニングルームで話しかけても、必要最小限の答えしか返ってこない。柚実とアキオが食事に誘っても、あいまいな返事で断るばかりだ。あからさまに木伏達を避けるような行動を取っている。
 とても、ドッペルゲンガーを素手で殴り倒したり、合一時に暴れまくった弥彦を力づくで押さえつけた人物とは思えない。
 それとなくギルにも報告したのだが「放っておけ」の一点張りだ。
 納得できない木伏が食い下がると、今度は「今はサナギだから、何も知らないお前達が触れるものじゃない」という。三条の身体は、今回の連続殺人犯――〈マスター・フリーク〉だと考えられる存在との接触で、大きく傷ついている。再生するまでの力を蓄えなければならないのに、弥彦の一件でそれを一時的に放出した為に、再び溜め込む作業に入ったというのだ。
 能力者の能力と同じように、三条の〈赤目のフリーク〉としての力は、意思力に基づく。再生力が減退している今は、精神力も減退していると見なして良い。自閉的な行動に入っているのは、その連鎖と考える事ができる。
 または、こんな風に考える事もできるという。
 変身によってエネルギーを失った〈赤目〉は、自分が他者との関係を続ける限り、今回のような突発的な出来事でエネルギーを消費し、それによって来るべき〈マスター・フリーク〉との戦いに備える事ができなくなる事を恐れたのではないか、と。身体の準備が間に合わなくなるという恐れを抱いたのかもしれない。
 つまり、先日のような「突発的な出来事」に遭遇する機会を極力減らす為に、他者との接触を避けているのではないかというのだ。直接他人を救うことは出来るかもしれないが、最終的に、自己の破滅と世界の破滅を招いてしまうとするならば、この大事な時期に他者に情をかけ続けることはできないはずなのだ。
 そして三条は、昔から他者への思いやりが深くなりすぎるとギルは言う。それが苦痛になってしまうほどに、他者の身を案じすぎるのだと。ギルの言葉を借りれば「自分で荷物を増やし続ける阿呆」なのだそうだ。「何もかも、自分のせいではないかと悩み続けて、自分の身を傷つけるとまた悩む馬鹿」であると。
 これらは三条の変化についての、あくまでギルの推測でしかなかったが、木伏は一通り納得することにした。
 ギルのように突き放すつもりはなかったが――とは言っても、ギルが本心から突き放しているのかどうかは疑わしいが――三条が一人で居たいと望んでいるのなら、その想いを汲んでそっとしておこうと考え直したのだ。
 確かに「サナギ」は触ってはいけないだろう。割って踏み込むなどもってのほか。
 だが、見守ることはできる。「サナギ」がさらされる危険を、木伏が先回りして排除してやる事はできるはずだ。
 弥彦の病室を訪れながら、時折「無意識の目」で三条の様子を窺う。忘我でトレーニングに励む三条の姿は、悲壮感さえ漂っていて、木伏は弥彦同様、彼の身を案じていた。
 弥彦には木伏がついてやる。今まで通り。
 でも彼には誰が? ギルか? しかし彼は三条を放置している。あのトレーニング時の顔を見ても、ギルは放置を続ける事が出来るのだろうか?
 わかっていてやっているのなら、木伏には腑に落ちない。
 腑に落ちないから、自分がやってやる――三条の力ない笑みを思い出しながら、病室で弥彦の寝顔に視線を落とす。
 木伏の周りの男は、子供みたいな人ばかりだ。遊ぶことばかりに夢中で、甘える事を知らなすぎる。
 こんな風に皆の心配してる木伏を、今のチームの人々は、きっと誰も気づいてはくれないだろう。気づくとすればアキオぐらいのものだろうが、彼の木伏への態度は保留といったところだ。
 彼はギルと木伏の関係について思うところがあるらしく、現時点では、柚実のことを差し引いても木伏に関わるそぶりはない。お得意のからかい程度の会話は日常的に交わすが、チームのあり方を相談する相手としては不適切と言わざるを得ない立場でもある。
 そうなると、どうしても隊長としての立場にあるギルに期待するしかない。
 だがあの軍医は、仮に木伏の懸念に気づいたとしても知らない振りをするのではないだろうか。三条の様子を無視するように。アキオの言葉を信じるならば、自分にまつわる悪意へと巻き込まないように。
 そもそも、現時点での木伏が副隊長的立場にあるというこの事態が、異様とも言えるのだ。なぜこんな重要な事態――世界の終わりに関わる事件なんかに、自分がサブとして関わらなければならないのか。士官学校あがりの幹部候補生ではなく、なぜ素人の集団と言っても過言ではないギルのチームが、〈西方協会〉からの接触を受けなければならなかったのか。ギルが専門家だとしても、なぜ自分まで一緒なのか。
 与えられた命令と指命を放棄するつもりはない。始まったなら全力で対処するつもりだ。だからこそ、その重要な戦闘の勃発までぐらい、愚痴をこぼしたくなる。
 せめて今ぐらい。そう、ギルが柚実に「今だけ」だと釘をしたように、今だけだからこそ、泣けるだけ泣いたり、話せるだけ話してみたいのだ。仕事の話だけではなく、今までの事も、この先の事も。
――だけど、一体、誰に?
 木伏の唇から、知らぬ間に重いため息が漏れていた。



 その時、木伏は地下へのエレベーターを待って立っていた。
 未だに弥彦の目が覚めない事は心配だったが、ギルが自分の元へ直接出向くよう命令してきたのだ。
 彼にいわせれば、弥彦への直接的な危機は明らかに去っており、木伏が看病するレベルの問題ではないとの事だ。そんな事より、いつもどおり、柚実には任せられない機器のオペレートをさせたいらしい。最近のギルは忙しいから、さすがに人手が必要になったのだろう。
 一週間の間、彼女はほとんどギルと顔を合わせていなかった。気まずさはもちろんだが、何よりも、二人とも急がしすぎた。端末やホットラインを通じての会話は交わしたが、いつだって業務連絡のそっけないもので終わってしまっていたのだ。
 それでも木伏は、今まで何度も手伝いを進言してきた。上司であるが故にサポートしなければという表面上の行動であったが、突っぱねられて、諦めざるを得なかったのだ。それを今頃になって呼び出すとは、どこまでも自分勝手な男だと思う。
 だが、ギルが着手した上層部への説得行動は、確かに、一人でやり抜くには少々時間も人手も足りないのが実情だ。木伏も自身の仕事で手一杯ではあるが、優先順位が最も上になる行動がどれかは、指摘されなくてもわかっている。大きなプロジェクトを早急に始動させなければならないギルのものに決まっているだろう。もちろんそれ以外にも、ギルの把握している都市の状況が異常を告げているのならば、微力ながらも急いで手を貸さなければならない。
 とはいえ、木伏だって特に大事にしたい仕事はあるのだ。
――急ぎはわかってる。だからって弥彦くんはどうでもいいって?
 そういう問題じゃないのに。
 木伏は誰も見ていないのを良い事に、そっと唇を尖らせる。廊下の突き当たりにあるこのエレベーターは、地下階、それも倉庫の階行き専用になっていて、木伏以外の人影は見当たらない。運搬用のエレベーターならともかく、人が向かう事自体、本来ならまれな事なのだ。
 木伏は唇を尖らせたまま思う。
 ギルは病に倒れた人間が、どんなに心細い想いで目を覚ますのか、医者のクセに知らないのだろうか? たった一人で、自分の身体すら満足に動かせずに目だけを見開く感覚――その時、誰もいない病室を見まわした時に感じる孤独感、見捨てられたような絶望感……そういったモノを知らないのだろうか?
 二十五歳から〈特務〉としての訓練を受け始めた木伏は、訓練中に熱中症などで倒れる事も多かった。その分、医務室でたった一人目を覚ます事もしばしばあった。だからいつも思うのだ――病人が目を覚ました時、側にいられたらいいなと。自分が何度も味わった、皆に置いて行かれるような寂しさを感じさせないように。
 ましてや、弥彦は能力者としての自分に戸惑いながら目を覚ますはずだ。その場に居て励ましてやるのも、先輩能力者としての木伏が自分に与えた仕事である。
 半日に一度の報告という義務だけではなく、木伏は経験から生じる同情や信念もあって弥彦の元へ足を運んでいるのだ。ギルの手前勝手な指示で、予定を混乱させられる事には抵抗を感じざるを得ない。
 もちろん、両者がそれぞれの感情で勝手に都合を押しつけている事はわかってる。木伏が勝手に弥彦への同情を大事にしようとしている事と、ギルが自分のやりたいように行動する事は同じレベルの話だ。
 それでも木伏は、弱者を優先しようとしている自分の方が、正しい行動を選択していると信じていた。同時に、それが軍人としての甘さである事も重々承知してはいた。
 だからこそ、ギルの呼び出しに応じて、渋々ながら例の地下室へと向かっているのだ。唇を尖らせながら。
――ギルには、私みたいな経験がないのかな?
 百五十年生きてる人間に、病気や怪我は縁遠いのだろうか?
――そう言えば……。
 彼は木伏に言ってた。『一つだけ質問にこたえてやる』と。
 その言葉は、今でも有効なんだろうか? 本当に百五十年生きてるんですか、とか? 本当に答えられるのだろうか? はぐらかされるのがオチじゃないか?
 聞きたい事は多すぎて、何を聞けばよいのかわからないのだが……木伏の質問リストに、『ギルは病気になった事があるのか?』という質問が増えたのは確かだ。
「どうしました? 変な口して」
 不意にかけられた声に飛びあがる木伏。本庁の中だから、すっかり気を抜いていた。
 〈西方協会〉の面々が易々と侵入している事実を目にした今、本当なら簡単には気が抜けないはずなのに。看病につきすぎて、休みボケになったのかもしれない。
 慌てて振りかえると、三条が力なく笑っていた。
 この青年は、いつもどこか疲れた笑い方をするんだと、最近になってやっとわかった。おそらくその笑みが、彼の生きてきた『戦いの日々』からくる疲れなんだという事も。
――この人が〈赤目のフリーク〉だなんて。
 未だに信じられない。
 御伽噺の生き物が目の前にいて、しかも人間として生活しているのだ。自分なんかより、ずっと若く見えるのに、自分の三倍以上生きているのだ。
――そして、私なんかよりずっと多く、〈フリーク〉と戦ってきたんだ。
 〈軍部〉や〈特務〉の中でも極秘中の極秘の存在である〈赤目のフリーク〉は――それは極秘が過ぎて都市伝説に姿を変えてしまったけど――百五十年前のカタストロフィ時代に、〈フリーク〉化した人々を殲滅する為に協力して来たんだと、先日アキオから聞かされた。
 アキオの話によると、〈赤目のフリーク〉が〈特務〉に味方していた事実は、もはやデータとしては残っていないそうだ。彼の名が記載されたデータは、最初の時点で作成すらされず、したがって存在すらしない。〈赤目〉と思われるデータは、全てその管理を一任されているギルだけが保有しており、〈赤目〉と〈特務〉の繋がりがマスコミや学者によって知られそうになった場合でも、ギル個人が「超法規的処置」をとってきたんだとか。
 なぜそこまでしてギルが〈赤目〉を隠したのかについては、アキオも知らないといっていた。
『ま、あいつにも砂粒ぐらいは優しいトコロがあるってこった』
 そんな風に言っていた。
 そして今――『三条尚起』と名乗る〈赤目のフリーク〉は、木伏の驚く顔を見下ろしながら
「また、ギルに文句でも言われました?」
 苦笑しながら、何事も無かったように話しかけてくるのだ。
 ずっと木伏を避け気味だった三条だったが、今日は機嫌が良さそうだ。それとも、そろそろチームの状況を把握したいと考え出したのだろうか? ずっと個人行動が続いていただけに、彼はギルや柚実が、そして弥彦が、今現在どんな立場にいるのか、ほとんど知らないはずなのだから。
 そして彼は、木伏がそれらの全てを把握できる立場である事を知っている。ギルのチームに極力接触せず、望むだけの情報を手に入れようとするなら、相手に木伏を選ぶのはそれほどおかしな話ではなくなる。もっとも、現時点でまともな軍人は木伏だけなのだから当然ではあるのだが。
 木伏は自分の立場を脳裏で反芻し、三条へ苦笑を返した。
「あたり。弥彦くんの面倒なんか見なくてもいいって、叱られちゃった」
 頭のすみで思う。自分は、彼の正体を知る自分は、不自然な顔をしていないだろうか、きちんと仲間として会話できてるだろうか?――そんな風にも思う。
「弥彦の容態はどうなんですか?」
「相変わらず。本当にメンタルの問題みたい。心電図や血圧計見てると、居眠りしてるのかって思うぐらい健康だし」
 応えながら、木伏は三条の背後に控えた〈特務〉の人間に気づいて目をやる。
 なんとも言えない、不思議な男がそこに立っていた。
 まず、年齢がわからなかった。佐々木柚実と同じぐらいにも見えるが、その幼さの残る顔立ちにもかかわらず、その気配や目つきには老兵のような精悍さと落ちつき、隙の無さが垣間見え、彼を見ている木伏の方が落ちつかなくなる不気味さがあった。
 木伏にとって、正体がわからないというものぐらい、怖くなるものはない。彼女の『無意識の目』は、ひょっとしたら、彼女のその恐怖を補う為に身につけられた能力なのかもしれない。だが、その能力でもわからない事があふれていると言う事は、ギルの例をあげるだけでわかる事だ。
 三条はそんな木伏の視線に気づき、おどけて首を傾けた。
「ギルに案内してくるよう言われたんです」
「へぇ……もしかして、珍しい事なんじゃない?」
「俺もそう思います」
 そこでチャイムの音が鳴り響き、一堂はエレベーターの扉が開くのを見守る。
 乗りこむ際、木伏がチラリと横目で見た客人のネームプレートには、「佐々木」の文字がプリントされていた。



「じゃ、次、やってみようか!」
 アキオはかなりご機嫌な様子で、額をさする柚実をロイド眼鏡越しに見て笑う。彼はもったいぶった調子で、一メートルほど離れた場所で、アタフタと姿勢を正す柚実に向かって拳銃を構える――とはいえ、オモチャの拳銃だ。中から発射されるのは、サバイバルゲームで使うプラスチックの弾丸で、それなりに痛いのは確かだが人体を損傷するほどの威力はない。
 自分に向けられた銃口を見、柚実はイメージを固める。弾丸が来る地点を予測し、自分とアキオの間に、身を守る為の壁をイメージ、現実にする為の力を発動させようとする。柚実のイメージはたいした抵抗も無く現実となった。空中にマグカップの底ぐらいに広がった、銀色の染みが出来てゆらゆらと揺れる。
 柚実には未だに信じられない。この銀色の染みが、自分の能力なのだ。自分の身を守る為に身につけた、能力者としての柚実の力。意識すればするほど、力は不安定に揺れ動き、ともすれば消えてしまいそうになる。
 オモチャの拳銃を構えたアキオは「ばーん!」とおどけながらトリガーを引く。プラスチックの弾は柚実の出現させた銀のプレートをかすめ、彼女の着ている〈特務〉のジャケットのワッペンにぶち当たった。
 人体に影響がない程度のスピードとは言え、ピシャリと叩かれた程度の痛みは走る。柚実は、ワッペンにあたった今回の弾丸がそれほど痛くなかった事に、ほんの少しだけ得をしたような気分で嬉しくなった。
「なかなかうまくいかないなぁ」
 アキオは拳銃を何度か構え直しつつ、独り言のようにぼやいた。
「柚実ちゃん、ちゃんと銃口見てる? 弾は基本的に真っ直ぐ飛ぶんだから、ちゃんと銃身の傾きや俺の目、腕、手の動きとタイミング、リズム……そのあたりを見れば、どこに弾が飛んでくるのかわかるはずだぜ? この距離でこのスピードの弾とめられないと、本物の弾丸なんて止められないぞ?」
「すいません」
 柚実は額をさすりながら謝る。とはいえ、こんな事、簡単に出来るわけが無いだろと心の中だけで毒づいていたりもする。簡単に弾道がわかるなら、戦場で弾に当る人間だって確実に減っているはずだ。
 先に弾をあてられた額は、ちょうどプラスチック弾の大きさに丸く赤く腫れあがっていた。気を抜いていたせいなのか、それとも発射の際に距離が近すぎたのか、衣類で覆われていなかったという単純な理由なのか……もしかしたら痣になるんじゃないかと、柚実はぼんやりと明日の朝の自分の額を想像して、一人肩を落とした。
 そんな柚実の年頃らしい落胆の間を狙ったかのように、隣室からギルが顔を出す。
「お前達、少しは静かに出来ないのか? ここは遊び場じゃないんだぞ?」
 柚実たちが訓練をしているのは、ギルの部屋の隣り――つまり診察室だ。普段使われていないこの部屋を、ギルはアキオの監視用として使用している事にしたらしい。上層部にはそんな事まで報告しなければならないんだと、柚実ははじめて知った。
「そんな事、知ってるよ。ここは遊び場じゃなくて、俺と柚実ちゃんの愛の巣なんだろ?」
「……お前の冗談は、何年たってもサムイな」
「あんたみたいな、悪趣味で本気かウソかもわからん冗談よりは、ずっとマシだと思うけどな」
 ギルは冷えびえとする笑みを浮かべたまま、柚実に視線を転じた。
「どうだ? 少しは慣れたか?」
「は、はい……」
 ギルは苦手だ。
 何も言ってないのに、なんでも知ってるような顔をして柚実を見て嘲笑う。高校にいたムカツク教師そっくり。それが腹だたしいのだが、彼はそれを知っていてワザとそういう顔をしているようでもあるのだ。その点に、更に腹が立つ。
 でもあの時――弥彦の二重現身を倒した事がわかって、思わず泣いてしまった時――気がすむまでずっと泣いてていいんだと囁いてくれたギルは、そんなに怖くなかったし腹立たしくもなかったような気がする。何度思い返しても、本当に柚実を心配していたんだと思う。
 現に今だって、柚実の事を気遣ってくれているようだ。
「あまり無理をするなよ。銃や体術は、後からでも覚えられる、出来ないからといって落ち込む事は無い。お前にやってもらう事はもう決めてるんだ、こちらの予定に間に合うように、能力開発の方に重点を置いてもらわなきゃ困る」
 ギルはそう言って、そっけなく、柚実に背を向けた。
 柚実にとって、〈特務〉の指導内容は、はじめての事ばかりだ。
 真面目に部活動をしていたせいか、基礎体力はとりあえず合格点をもらったのだが、他の種目はまるでダメだった。格闘技ならまだしも、拳銃の組み立て方なんて普通の高校生は知らないし、拳銃そのものに触ったのもはじめてだった。アキオは一つ一つ、冗談交じりで丁寧に教えてくれるし、手馴れた様子で柚実の指導をしてくれるのだが、それがかえって柚実を絶望的な気分に落とし入れる。彼のように器用に、目隠ししても拳銃が組みたてられるようになるなんて、何年かかるかわからない――そんな気分になる。
 ギルが軍事訓練よりも、能力者としての能力の方をしっかり磨けと言ってくれたのは、そんな柚実の心細さを、軍医が知っていたからだろうか?
 まさかとは思うが。
「そうだな……作戦中に死ぬのは構わんが、今は身体を大事にしろよ。あとアキオ、お前はうるさすぎる。柚実が身体を壊す前に、私がお前を壊したっていいんだぞ? まずはその喉を切ってやろうか?」
「ハイハイ、お医者様はご機嫌斜めだねぇ。珍しく俺の美声に文句つけてくるとは、何があったんだか。……何かあったんだったら、はっきり言えよ」
 最後の一言だけ、真剣さのこもった声。普段はふざけている分だけ響く真剣な問いかけ。ギルは二部屋を仕切るドアを閉めながら
「客が来る。私が呼ぶまで、大人しくしててくれ。相手は〈特務〉というより、〈軍部〉の使いだ。よく知っている人間だが、お前と私が馴れ合ってるのを知られたくはない」
 アキオは片方の眉をあげて、了解の意を示す。
 ギルがドアを閉めると、アキオは柚実に向かって
「そういう事だ。ちょっと別の訓練でもしようか。さて……教えてないのはなんだったかなぁ……」
 アキオはあらかじめギルに渡されていた〈特務〉の指導マニュアルを手にすると、パラパラとページをめくりはじめた。
「これなんてどうだ? 応急処置マニュアル。限りなく民間人に近い柚実ちゃんが、すぐ覚えられそうなのなんて、これぐらいじゃ……なんて顔してるんだよ、柚実ちゃん。大丈夫だって、止血法と包帯の巻き方だけだって。人工呼吸はいつか彼氏にでも教えてもらいなさい。それでいいだろ?」



 最近のギルの部屋は来客が多い。とても『開かずの間』と呼ばれていた部屋とは思えないほどだ。その急激な変化の中でも、ギルはいつもと変わらぬように見えた。
 三条尚起は自分の連れてきた〈特務〉Aクラスの青年――というより、少年と言った方がふさわしいかもしれないが――をギルの前まで誘導すると、後を木伏に任せて退いた。何かあった時の為に、自らは戸口の前に控える。
 軍医は少年を眼にした瞬間、呆れたようにお手上げのジェスチャー。いつもの冷笑を浮かべながら
「久しぶりだな。少し背が伸びたようだが」
 ギルは椅子に座ったまま、略式敬礼を返す〈特務〉Aクラスの青年を見上げた。
「どうだ、今の職場は?」
「可もなく不可もなく」
 軍医は差し出された書類を受け取りながらニヤリとした。このご時世、紙媒体の書類はほとんどない。一部の命令書だけだ。
「どうだかな。ククク……お前、最近は〈特務の切り札〉とか呼ばれてるんだってな。どれぐらい殺した? ん?」
「私は命令に従っているだけです。数は関係ありませんし、残念ながら覚えておりません」
 少年は顔色一つ変えずに答えると、文面に目を通すギルの返答を待っていた。
「……フン。こんな命令がでるとはな。どうしてお前を私の配下に置かなきゃならないんだ。全部私に任せるんじゃなかったのか? 私の作戦では、お前を使う予定なんぞ欠片もないんだがな。しかも被験者候補? 何を考えてるんだ、上層部《うえ》は?」
「お答えできかねます。私はこの書類をギル・ウインドライダーに渡すよう、命じられてきただけですので」
「『FD−003』を見た事はあるのか?」
「弥彦・エンヤBクラス警備補佐官がテストしているVTRなら拝見しました。実物はまだです」
「ならわかるだろう? あれがどんな代物なのか。お前には無理だ」
「私は上官の命令に従うだけです」
 ギルは腕組みすると、傍らに控えていた木伏に眼を転じた。
「アヤメ、この小僧に〈フィストドライブ〉が振りまわせると思うか?」
 木伏は少年の身体を眺めながら即答した。
「まず無理だと思われます。それ以前に〈フィストドライブ〉は弥彦警備補佐官の身体に合わせて整備されているものです。〈フィストドライブ〉のオートフィット機能には上限が定められていましたし、それを考えると、失礼ですがこの方の腕はあまりにも細すぎて、装着する事ができないかと」
「整備の方は考えなくてもいいらしい。調整しろといってきている」
「……それでは、問題はこの方の身体的な、筋力の問題になりますが」
 ギルはニヤニヤしながら、今度は三条に眼を転じた。
「お前はどう思う?」
「俺は知らない。軍の事はお前が勝手にやってる事だろ? 俺は部下も仲間もいらないって、前から言ってる」
「また、失うのが怖いからか?」
 揶揄を含んだ言い方に、三条は答えず、黙って睨みつけた。
「まあいい……聞いたとおり、お前には無理だという意見が大半なんだが。どうする?」
「私は上官の命令に従うだけですので」
「あいかわらず、人殺し以外に興味はないようだな」
「いいえ。命令の遂行に興味があるだけです」
「なんでこう、面白いヤツにかぎって口を開けばつまらん言葉を吐くのだろうな……わかった、私の下につくのは引き受けよう。だが一つだけ条件がある」
「何でしょうか?」
「私の下にいる間、お前の名前を変える。なぜかはわかってるな?」
「了解しました。お好きなように呼んでくださって結構です」
「アヤメ、隣りの部屋から馬鹿とお嬢ちゃんを呼んできてくれ。さて……和政、上着を脱いでもらおうか。仮に〈フィストドライブ〉を装着する時が来た時の為にサイズをとっておかないとな」
 軍医はデスクの引出しを開け、中からメジャーを取り出した。言われるままに上着を脱ぐ少年と、隣室のドアから顔だけを突っ込んで二人を呼ぶ木伏。


 三条はそれらを、夢の中にいるような、他人事のような気分で眺めていた。
 自分だけが彼らから遠く離れているような気分で、彼らがそれぞれの仕事をしているのを眺める。
 いや、実際彼らから遠く離れているのだ。生きている年月も、自分の所属する空間も、生物としても存在も。
 過去にギルは言っていた。
 〈フリーク〉とドッペルゲンガーは、〈人格波動〉の理論で説明できる、世界が各種の〈人格波動〉によって構成されているとすれば、そのズレによって統合映像である現実が二重にダブり、個人の世界構成に対する役割などが独り歩きしてしまう事もあるのだと――それが彼の錬金術師としての知識なのだと。能力者も魔術師も、アクセス方法や種類こそ違えども、世界を構成する要素に働きかけ、自分の身体を媒介として発動させている点では同じ作業をしているのだと。
 ギルや〈西方協会〉の魔術師達は、自分の身体と世界を構成するある種の〈人格波動〉と密接に接しすぎたが為に、全体的な身体機能バランスが崩れ、結果的に不老長命を得てしまったようだとも言っていた。
 だが、こうやって世界の構造や不可解な現象を曲りなりにでも説明できるギルでも、〈赤目のフリーク〉がどんな存在なのか、今はまだわからない。〈赤目〉の主治医と言ってもいいギルだが、その治療法は基本的に〈フリーク〉のデータを元にした、あくまで予測の範囲でしかないのだ。
 そもそも、普通なら〈フリーク〉化するか、二重現身に喰われていたはずの身が、どうしてどちらでもない存在である〈赤目のフリーク〉として正気を保っていられたのか?
 仮に能力者の一種だとしても、どうして〈赤目〉以降、同様の能力を持つ能力者が存在しないのか? 筋力強化系の能力を持つ能力者がいる事は確認されているが、〈赤目〉のように空間に影響を与えず〈フリーク〉を殲滅できる存在は確認されていないのだ。
――結局、俺は人でも〈フリーク〉でもないんだ
 ギルは「人」として扱ってくれるが、それはただのあてつけに過ぎない。
 死んだ『三条尚起』が〈赤目〉を人として扱う事にこだわったからだ。その『三条尚起』を見殺しにした〈赤目〉を、ギルは今でも許してはいない。ギルにとっても、『三条尚起』は大事な友だったのだ。錬金術師のどこが気に入ったのか知らないが、『三条尚起』はよくギルの部屋へ通ってきていたらしい。部屋に閉じこもりがちなギルにとって、彼は数少ない友の一人だったのだろうと考える事は難しくない。
――結局、錬金術師とかいっても人間だろ?
 〈赤目のフリーク〉である自分とは、最終的に土俵が違うのだ。
 大体、ギルは閑職とはいえ〈軍部〉に『人格波動研究所』という部屋を与えられているニンゲンなのだ。この都市の社会の一員として、所属しているのだ。その点でも、どこにも所属しない〈赤目〉とは違う。
――あいつがいうように、社会《ここ》から逃げ出したのは俺だけどさ。
 カタストロフィが収まってしまうと、『三条尚起』がいるべき場所にいない事が辛かった。彼の死を悲しむ人間に逢うと居たたまれなくなった。大災害の間に彼と一緒に〈フリーク〉と戦った様々な場所を目にするたびに、自分がやってしまった「見殺し」という行為が許せなくなった。そして、彼と共に駆けずり回らなかった場所など、この都市にはない事に気づいた時――この都市は〈赤目〉にとって息苦しいだけの場所に変わり果てた。
――なのにどうして?
 〈マスター・フリーク〉の気配を感じたからといって、どうしてこの街に戻ってきたのだろう?
 どうせあの時のように、恐怖で動けなくなるだけなのに。
 どうせあの時のように、誰かを失ってしまうのに。
 どうせあの時のように、自分を信じられなくなるだけなのに。
――俺はあの時、他人を信じる気持ちをなくしちまったんだろうな。
 自分だけではなく人間が信じられなくなった。自分がしでかしたように、いつか仲間が自分を裏切る日が来る事を恐れるようになったのだ。
「変なトコロで気をつかうんですね」
 三条はその声で我に返る。腕の太さや長さをギルに測られながら、少年は小さく微笑んでいた。嘲笑ともとれる笑みで。
「名前ですか……あいかわらず、爪が甘いんですね。時々、貴方の悪い噂の全部は貴方自身が流してるんじゃないかと思う瞬間があります。Aクラスなんかにいると特に。お優しくて結構な軍医さまですよ、貴方は」
「誤解するな。お前とアイツは後々使える。妙なショックを与えたり、お前との繋がりを知られたくないだけだ」
「イイワケも下手だ」
「殺人衝動を親の敵《かたき》だと思い込みたい子供に言われたい言葉じゃないな」
 隣室から出てきた人影に、二人は言葉を切る。
 〈特務〉の制服を着た佐々木柚実が、おどおどしながらやってきた。ショック状態だった頃から比べれば、顔色もずっとよくなり元気そうだ。なぜか額が真っ赤になっているのが気になったが。
 背後には、まるでボディガードのように控えたアキオが笑ってる。三条と伊達眼鏡ごしに交わした視線には、ギルの前で腕を出す少年が何者かを問いかける警戒の色が見えた。
 柚実はぎこちない仕草で略式敬礼をすると「あの……何か?」
 敬礼しておいてその問いかけはないだろうと思うが、ギルは不問にしたようだ。
「みんなに紹介したいのがいてな。この若造だ。〈フィストドライブ〉の被験者として派遣された。元々〈フィストドライブ〉は非能力者の為の兵器だからな、弥彦が能力者になった以上、奴に〈フィストドライブ〉の被験者はつとまらないと上層部は考えたらしい。ありがた迷惑な話だ」
「あの、弥彦さんの容態はどうなんでしょうか? そんなに悪いんですか?」
 「大丈夫よ。まだ目を覚まさないけど、命に別状は無いから」と木伏がフォローする。ギルは柚実の言葉を聞いてなかったかのように続けた。
「コイツはこう見えても〈特務〉Aクラス辺境四〇番基地警備官だ、本来はアヤメより上官だが、今回の事件の間、つまり私の下で働いている間は警備補佐官扱いにさせてもらう。名前は……『相田一裕』、アイダカズヒロだ」
――え?
 三条は思わずギルに目をやった。軍医は三条の視線に気づいて振りかえる。悪意のこもった目で、ねばつくような笑みを投げかけてくる。だが三条にはその笑みに反応する余裕が無かった。
――どうして、その名前を?
 急な混乱に、思考がまとまらない三条。確かに目を開けているはずなのに、目の前の光景を認識できなくなる。ショックが大きいと本当に目の前が真っ暗になるんだと、あらためて確認する事が出来た。
 そんな大人二人の様子に気づいていないように少年は立ちあがり、柚実たちに向かって敬礼。
「相田一裕です。しばらくお世話になります、よろしくお願いします」
 こうして〈特務の切り札〉佐々木和政は、「相田一裕」としてギルの下に配属されたのである。双子の妹に知られる事もなく。
 そして……。
――また、嫌がらせなのかよ?
 急にこみ上げてきた吐き気に、三条は急いで口元を押さえる。自分でもこんな反応が出るとは思わなかった。忘れていた嫌悪感が、名前と共に蘇ってくる。
 相田一裕。
 その名前こそ、彼が都市から逃げ出した時に一緒に捨てた本名だったからだ。




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