R-T-X 「13・双子と青年(上)」
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 翌日のケネス小隊の役割は、避難民の確認作業だった。
 まだシェルターに避難していない人々や、孤立してしまった人々の探索作業であり、移動までの護衛である。
 ギル特殊小隊は、〈マスター・フリーク〉の出現を確認するまでケネスたちと行動を共にするとの命令を改めて受けていた。
 ケネスとアーガイルと一裕は、移動用の特殊車両に乗り込み、中継基地として待機。一方でコージと柚実は避難者探索に歩くことになった。
 コージと柚実という、攻撃力のない二人で探すことに不安が無いと言えば嘘になる。
 だが、ケネスが命令を下したのは、もう一人、思いがけない人間が追加されたからだ。
 いや、当然といえば当然なのだが。
 三条尚起は、アーガイルのあからさまな好奇心の目に対し、迷惑そうに眉をひそめた。いつものように気弱な笑顔の好青年の姿を脱ぎ捨て、彼への嫌悪を隠さなかった。


 弥彦でも木伏でもなく、三条がやってきた事実は、柚実を大きく動揺させていた。
 まだ、心の準備ができてなかったからだ。
 後輩を殺してしまった自分。
 それを三条に押しつけてしまいたい自分。
 その弱さを思い出させる三条の姿。
 あの日から、まだ丸一日しか過ぎていない。なにもかも早すぎなのだ。
 彼の存在は確かに心強い。だが、手放しで喜べるほど、時が過ぎたわけでもない。
 決意はした。
 自分の進むべき道を見いだしたとも思う。
 だが、たった一日で、全てを背負い込む覚悟などできやしない。
 相田一裕は黙って二人の姿を見比べ、そのまま無言で自分の端末をのぞきこんだ。何かと言えば端末で軍の行動をチェックする事そのものが、彼の暇つぶしでもあるようだ。
 一方のケネスは、三条については何も知らない。自分たちを助けてくれた第三種免許の人物であり、〈フリーク〉的な能力を持つ一般人だという認識が先にある。当然、都市伝説の妖怪・〈赤目のフリーク〉であるなど夢にも思ってはいないのだろう。
 三条尚起という人間がギルに選ばれたメンバーである事実を警戒してはいるようだが、弥彦といい三条といい、直に語り合い、自分の思ったような人間では無いと感じたらしい。
 少なくとも、自ら進んで柚実の護衛につくと進言した三条の言葉に、納得するだけの判断力は残っていた。
 三人を送り出す前に、ケネスは三条に声をかける。
「弥彦補佐官の調子はどうだったかな?」
 ケネスも、よもや目の前の青年が百五十年前より生きている人間とは思わないのだろう。
 三条は軽く笑ってうなずいた。
「復帰したばかりなんで、くたびれてはいますけど。やる気は十分です。元々、〈フィストドライブ〉がくれば百人分働けるっていう自信はあるみたいですからね」
「確かに、アレがあるとないとでは彼の動きもまったくちがうからな」
 ケネスは遠い目で、一度目にした彼の勇姿を思い出そうとしているようだ。
 そして、ふと呟く。
「そういえば、君と一裕が間に合わなければ、今頃私も死体安置所で転がってるころだな」
 そう、あの、柚実の思い出したくない場面の先には――ケネス小隊の半数以上が死傷する場面があったのだ。
 確かに、三条が乱入しなければ、そして相田一裕が駆けつけるのがほんの少し遅ければ、ケネスも柚実も、こうやって生きてはいなかったかもしれないのだ。
「少々遅くなってしまったが、本当にありがとう」
 三条は少し驚いたように、でも確かに照れたように、頷いただけだった。
 その三条を、アーガイルが何か言いたそうに眺めている。
 〈フィストドライブ〉を着けた弥彦にすら、悪意じみた言葉をぶつけていた彼だ。
 彼は、何かしら自分が中心になっていなければ気が済まないのだろう。せめて、その場の指揮官からの賞賛と注目が欲しい類の人間なのだ――柚実も一日つき合ってからはそう思う事にしている。
 それなのに、ケネスからの礼に微笑む三条に何も言わない。これは意外なことだ。
 柚実はふと、このアーガイルと一裕が連れ立って去っていった事を思い出した。
 二人が食事をし、何を話し、そしてどんな風にそれぞれの寝床へ戻ったのかわからない。だが今のところ、一裕はタトゥー男をうまく丸めこむことに成功したようだ。
 相変わらずコソコソニヤニヤと、柚実とコージを小馬鹿にしたようにうろついているが、昨日のようなあからさまな言動はなくなった。
 癪にさわるが、一裕が釘をさしておいたに違いない。
 三条はケネスの視線や感謝を避けるように、柚実に無言で合図する。
 特殊車両周辺を歩きながら、脱出の遅れた避難者を探す為だ。



 ケネス達三人が見えなくなるまで、柚実達三人は無言で歩いた。
 五分ほど、視認だけで通過した頃だろう。
「そろそろ、やってみるよ」
 コージが探知能力『カラーソナー』を発動。コージにだけ感じられる、様々な〈人格波動〉によって自分たち以外の人間が存在しないかを探す。
 もちろん、彼の能力にも限界や見落としがあるからこそ、柚実と共に視認を行うのだ。三条は、護衛として彼らの周辺で待機する。
 柚実は真剣な顔でゆっくりと歩き続けるコージに併せて歩を進めながら、周辺を見回して思う。
――よく考えてみれば、三条さんは〈赤目のフリーク〉なんだから、コージくんの能力みたいな事も、普通にできそうなんだけど。
 いや、おそらくできるのだろうと柚実は思う。コージとまるっきり同じではなくとも、〈フリーク〉の気配を察することはできるんだろうと。
 とはいえ、三条がしゃしゃり出てしまったら、コージはますます立場がなくなる。アーガイルは、また余計な口出しをしてくるだろうし、一裕は役立たずはいらないと思うに違いない。
 三条が口を出さないのは、コージの為なんだろうかと思う。
 振り返り見た三条は、柚実と目を合わせると困ったように微笑んだ。
――そうだった。三条さんはこういう人だった。
 最初から、柚実や木伏には、どこか掴みきれない戸惑いにも似た笑みをむけてきたような気がする。
 ギルや弥彦、そして一裕に向かっては、時に全力で叫んで否定するというのに。
――女は足手まといってこと?
 今の柚実には否定できないが、木伏さんは違うと思う。確かに木伏と弥彦の戦闘力を比較すれば雲泥の差はあるだろうが、少なくとも、三条と木伏が共闘したことはないし、三条は試みたこともない事で他人を評価するような人間ではない。
 でも今は、それ以外考えられない柚実でもある。
 妖怪の年齢なら、木伏さんだって子供みたいなものだ。
 だが、自分の結論ながら、違うとも思う。
 わかないまま、目を逸らした。
 三条は何も言わなかった。



 柚実は気を取り直して、別のことを考えようとする。
 少しでも早く、自分が〈特務〉としてできることはないかと探すためにも。
 ギルから受け取っている作戦内容はシンプルだ。〈マスター・フリーク〉が出現したら、アキオ共々そこへ追い込み封鎖する。その場で〈赤目〉と決着をつけさせる。
 ならば、〈赤目〉は最後の切り札であり、やはり、ただの探索作業で疲労させてはいけないはずだ。
 それでなくとも――予想外の事態とはいえ、復帰したばかりの初日に、あんな〈フリーク〉の大量発生が起こってしまった弥彦の不運がある。
 弥彦は決戦に備えての大事な防衛力だ。その彼も疲労困憊にまで追い込まれた。
 いや、それを言ったらアキオなど……。
 こんな状況で、当初の作戦を実行できるのか?
 いや、それはおそらく、柚実の考える事ではない。
 手放しであるべきだが、自分の命がかかっている分、その考えは不安ばかりを呼ぶ。
 成功の確率が低くなればなるほど、自分の力の重要性も増していくだろう。
 だが、自分にできるだろうか?
 たった一人も助けられない力など、本当に役に立つのだろうか?
 役立たせると決意したが、行動に移せるのだろうか?
 誰かの盾に、誰かの壁になって、守る事だけが自分の力だというのに。
――力でかなわないなら……。
 その時は、自分の身を差し出しても、壁となって――。


 ふと気がつくと、今度は三条が柚実を見つめていた。
 後ろからついてきたはずの三条が、いつの間にか自分の横に並んで歩を進めていたのだ。
 先と同じような、笑顔とも真顔ともつかぬ、なんとも中途半端な表情で口を開く。
「……どうした?」
 返事をしようとして、さらに、自分の隣りにコージが並んでいる事に気づく。いつの間にか、三条とコージに挟まれた形になっていたのだ。
 コージは、三条のようにはいかない。
 『カラーソナー』の能力を使った後だけに、疲労で顔を赤らめている。その顔色以上に、表情は狼狽していた。柚実の一挙一動を確かめるようにのぞき込んでいる。
 柚実は男性二人を見比べて、何をしたかはともかく、自分が彼らを心配させるようなことをしでかしたのだと気づいた。
「……な、何か、しました?」
 男性陣は顔を見合わせ、そして三条に促される形でコージが口を開いた。
「ケネス隊長からのコールがあって、自宅から移動しようとしない夫婦がいるから説得してくれと通報があったらしい。ここから少し遠いけど、三条さんがいるなら大丈夫だろうって」
 その言葉に慌てて襟元のマイクと端末を確認する
 確かに通信記録が残っていた。
 コールに気づかないほど、考え込んでいたらしい。それともまだ、コールが自分のものだという自覚がないのか。
――いや、鳴っていたとしても、自分が呼び出されるはずがないと思っていたからだ。
 自分で結論づけながら、恥ずかしくなる。
 少なくとも、二人は気づいていたのに自分は気づいていなかった――これが仮に〈フリーク〉からの攻撃だったとしたら?
――バカみたい……。
 決意しているどころではない。
 自分の身を犠牲にするどころではない。
 自分の身を誰かの盾に使うその時まで、自分を守ることすらできていないじゃないか。
 これじゃ何の役にも立たず殺されるだけだ。
 これでは、先日まで高校生だった柚実のままだ。
 美雪を守ろうと決意した〈特務〉の柚実ではない。
――何かあれば三条に守られてばかりだ。
 そして、今も目の前にいる三条だ。
――この人が一緒にいるかぎり、自分はずっと子供だ。
 そんな言葉が脳裏を横切る。
 それが八つ当たりだとわかっているが、不意に柚実は、三条がどこかへ立ち去ってくれればいいのにと考えた。
 一日前の混乱の時には、あれほど来ることを願っていた三条が、自分の弱さそのもののようにすら思えたのだ。
――自分は、ずるい。やっぱり、ずるい。
 コールに気づかなかった恥ずかしさも、自分の落ち度も、みんな三条のせいにする自分。その自分に対する嫌悪。それらが胸にこみ上げ、柚実はやましさから三条から目をそらし、心配そうなコージを睨む。
 コージはその表情に驚いたようだったが、言い難いことも最後まで言い切るだけの甲斐性はあったようだ。
「それでね、柚実ちゃん……その残っている家族っていうのが、君の両親だっていうから……」
 その言葉は、柚実のごちゃごちゃした感情を一気に白紙に戻すだけの力を持っていた。



 指定されていた場所は、確かに自宅の場所だった。
 養父母たちと共に過ごしていた家。
 向かう道々で遭遇した人々に避難所を案内したり、物資の配給場所を教えながら近づいて行く。
 〈シェルドライブ〉の一団と敬礼しあったり、蒼い腕章を着けた一群が、〈特務〉の一群と手配の相談している場面に出くわしたり、普段ではとても見られない光景と、それらが見慣れた場所を背景に動いていることが、とても不思議でならなかった。
 各所からはサイレンの音や、何かの怒声が細切れに聞こえてくる。一日二日たったとはいえ、まだまだ予想外の出来事や〈フリーク〉の出現は続いているのだろうし、それに伴う負傷者や救助活動も続いている証拠だ。
 そんなの非日常的な街の中を、細々とした雑務をこなしながら三人は通りを進んだ。

 懐かしい家の屋根が見えた時、柚実は少しだけ息をのんだ。
 弥彦に釘を刺されたことを思い出す。

 『〈特務〉としての佐々木柚実』に、過去はない。
 身内の安全の為にも、過去の知人や家族に近づいたり、声をかけてはならない。

 そう、それを怠ったが故に――無知故に、美雪に声をかけ、〈フリーク〉が出現し――巻き込まれ、柚実に振り回された美雪は死んでしまったのだ。
 自分が和政の忠告や弥彦の言葉に反抗していたが故に。
 美雪が声をかけてきたとしても、そのまま無視するべきだったのだ。知らぬフリをしておけば――少なくとも、彼女の死の責任が自分に降りかかることは無かったのだ。
 いや、彼女の事だから、うまく逃げ仰せたかもしれないのだ。
 柚実が、その掟を知らなかったばっかりに、人が一人、死んだのだ。
 少しだけのんだ息が、そのまま、詰まる。
 あの家にいる人は?
 柚実にとって唯一と言っても良い家族だ。
 両親が事故で亡くなり、遠縁だった彼らが快く引き取って育ててくれた。
 同じ年頃の子供が、前年に病で亡くなったからと。
 実の子供のように育ててくれた事を、柚実は知っている。いや、両親の記憶がほとんどない柚実にとって、彼らは両親以上の存在なのだ。
 能力者になったとはいえ、突然、子供に立ち去られた二人はどんな想いだっただろう?
 自分の子供が亡くなった時のように、彼らは二度も、いや和政も含めて三度も、子供を失ったようなものだ。
 それよりも、もっと怖い気持ちもある。もしや、柚実が能力者だと聞かされて、気味悪く思ってはいないだろうか? 下手に近づいても拒絶されてしまうんじゃないだろうか?
 息が詰まり、そのまま、柚実は喘ぐ。
 養父母に謝りたい。泣きながら謝って、美雪を守れなかった事を打ち明けたい。〈特務〉なんか飛び出して、彼らの子供に戻りたい。
 それが許されないとしたら?
 自分は、どうすればいいのだろうか?
 どこに行けば、誰が許してくれるだろうか?
 息が――。

 ドンと、言葉通り内蔵から痺れるような衝撃があった。

 痛みにせき込みながら、二、三歩よろめき、踏みとどまる。
 その身を支えてくれたのは、コージだった。
「ねぇ、柚実ちゃん……本当に大丈夫?」
 せき込み続ける柚実の顔と三条を何度も見比べながら、コージは心配そうに呟いた。
「息、できなくなってたよ? 三条さんが気づいて背中叩いてくれたんだ」
 柚実は何度もせき込み、呼吸を整えようとしながら、自然に滲んでくる涙を拭った。コージから比べれば、まるで無関心、無表情のようにさえ見える三条の表情だ。背を丸める柚実を見下ろしながら、小さく息をつく。
「柚実ちゃん……昨日今日で立ち直れとはいわないけどさ。でも、もう少し気合い入れないと。今は俺もコージ君もいるから良いけど、今日は朝から変だし、俺もずっと一緒にいられるわけじゃねぇし」
 コージが同意に頷いているのが、妙に癪に障った。
「調子が悪いんだったら、まずはそれをギルに進言して、シェルターに行くべきだ。ギルは嫌みの一つぐらい言うと思うけど、あいつはそれが生き甲斐みたいな奴だから無視して、さ」
 正論だ。
 だから、この人が嫌いだ。
 この人の正論は、和政の正論とは違う。柚実の身を本当に思っての正論なのだ。
 三条は優しい。いつだって優しい。おそらく、弥彦のような優しさや頑固さとは違う。〈赤目のフリーク〉だからか、百五十年の年月のせいなのか。理由はわからないが、三条は絶対に、柚実を肉体的に追い込むような事は言わないだろう。むしろ、争いごとからなるべく遠ざけようとするだろう。その為にギルと敵対することになるとしても、だ。
 そもそも、自分がギルの部隊にいるのは成り行きでもある。自分はギルの部隊にふさわしいほどの経験も、能力もない。
 三条が未経験者である柚実を庇い、今のように精神面から肉体的な症状が現れたのならば尚のこと庇い、それは彼の優しさから当然に出された発言なのだ。
 だからこそ、柚実を追いつめる。
 三条の優しさは、日常から弾き出された能力者の柚実にとって、唯一与えられた〈特務〉の居場所さえも奪ってしまう言葉となってしまう。
 三条は弱者を守りたいだけなのだ。〈赤目のフリーク〉として。
 その弱者の中に自分がいるのならば、そこから出ていかなければならない。
 自分の弱さが美雪を殺してしまったのだから。
 これぐらいの、息ができないぐらいがなんだというのか。
「家族が、いるんです」
 今の柚実がしがみつけるのは、その一言だけだ。
 三条の手強い優しさを切り裂けるのは、柚実の決心だけだ。
「私の家族を迎えに行くんです! シェルターに行くとしても、家族と一緒じゃなきゃ、イヤなんです!」
 三条は黙り、口をへの字に結んだ。
 怒っているようにも見えたが、その気配は変わらなかった。むしろ、自分の言葉が余計なものだと気づいたらしい。
 コージはオロオロしながら、柚実の背をさすっていた自分の手に気づき、びっくりしたように手をゆっくりと離した。
 そして、慌てたように柚実と三条の間に割って入る。
 小声で
「そんなに怒らなくても……三条さんは、嫌みで言ったわけじゃないと思うよ?」
「わかってる」
 何もかもわかっているから、悔しいのだ。
 柚実は足早に自宅へ近づいた。
 もう、拒絶される恐れなどなかった。それ以上に、三条の優しさから逃れたい一心だった。
 周囲の様子をうかがうかぎり、〈フリーク〉が暴れた痕跡はない。この周辺では出現しなかったのか、たまたま被害を免れたのか。
 ほっとしながら、柚実は見慣れた一戸建ての我が家に近づいた。
 窓越しに、人の顔が見えた。荷物をまとめているのか、部屋の中をせわしなく動いている。
 薬品会社の開発部に所属している養父は、中背だが痩せており、その上猫背気味なので小さい印象がある。だが、その顔はいつも笑顔で、声を荒げるようなことは滅多になかった。
 家に帰る時間は不規則だったが、休日には柚実の練習や試合にも付き合い、文句も言わずに喜んでくれた養父。
 いや、父だ。少なくとも、心の中ではずっと父なのだ。
「おとうさん!」
 その父に向かって、いつも通り呼びかけた。
 気づくまでと何度も呼びかけているうちに、別の窓から顔を出したのは、養母だった。
 子供の頃、病気がちだった柚実をずっと心配してくれた養母。いや、この人も、母だ。
 病気への抵抗力をつける為と運動をすることを進めてくれた母。食べ物や着る物も吟味し、柚実の為に手間をかけることを惜しまずに育ててくれた母。
 あの日――ドッペルゲンガーに襲われた日も、勝手に学校から帰ってきてしまった柚実を問いつめるような事はしなかった母。いつだって、柚実の気持ちを優先してくれた母。
「柚実! お父さん、柚実だよ、柚実! わぁ! やっぱり、来てくれたんだね!」
 母の叫びは、途中から潤んだ。
 そのまま二人は、何も言葉にできず立ち尽くした。


 母は、三条の顔を覚えていた。
 柚実がドッペルゲンガーに襲われた時に助けに来てくれた〈特務〉の人という認識だ。
 ギルが約束通り、自分たちの部隊に柚実を引きとってくれていたと知り、安堵していた。
 もちろん、胡散臭い連中だとは思ったようだが、三条と弥彦の言動から、少なくともこの二人になら柚実を任せられると思っていたらしい。それだけに、この異常事態に対しても、二人が一緒に行動していることは大いに救いとなったのだろう。
「どうして避難しなかったの! もう、散々連絡来てるでしょ? 〈フリーク〉がでなかったのは運が良かっただけなんだからね!」
 安堵を通り越して噴出した柚実の怒りに、二人は困ったように笑った。
「一度は避難所に行ったんだよ」
 父が取りなすようにゆっくりと言った。
 普段通りの、気負いのない姿だ。
「でも、昨日になったらどうも襲撃も落ち着いたようだし、自宅に戻ってようかって、二人で決めたんだ」
「どうして? まだ何も終わってないんだよ? いろんな人がウロウロしてるし、〈西方協会〉とか〈E.A.S.T.s〉とか、もちろん、空き巣まがいの人だってうろついてるんだよ? 二人だけで戻ったって、しょうがないでしょう? なんでそう、楽観的なの? どうしてそんなにノロマなの? こんな家より、命の方が大事じゃない!」
「そりゃ、確かに居てもしょうがないけどねぇ……」
 母は言い澱み、父と顔を見合わせる。
「じゃあ、さっさとシェルターに行こう! 私、みんなを案内する係なんだ、少なくとも今日は。だから、一緒にいても文句言われないから」
「そうだな」
 父は母と顔を見合わせ、会話を見守っていた三条とコージにも目を向けた。
「すいません……お時間、いただけますか?」
「もちろんです」
 柚実やコージが戸惑うよりも早く、三条の返答。
「お二人に何か起こるようなことはあり得ません。俺と、このコージが見張ってます。それに……柚実ちゃんは、もう十分に二人を守れます」
 柚実はその言葉に、浮かれていた心臓を掴み出されたような気がした。


――守る?
――この二人を、この私が守る?
――美雪一人さえも守れなかった自分が?


「三条さんっ!」
 怒りを含んだ声に、三条以外の全員がビクリと体を震えさせた。その反応に、自分の言葉に含まれていたものの大きさを再確認する柚実だ。
 だが、三条は引かない。
「コージ君、少しで良いから能力を展開させておいてくれ。……柚実ちゃん、君も少し慣れなきゃダメだ。いつまでも悔やんでいても仕方がないだろ」
「三条さんは、わかってないんです!」
「そりゃ、わからない。わからないけど、できなかった事で悔しい思いをした事はある」
 そこで三条は一度、言葉を切った。
 三条は、ふいに呆然と空を見上げた。
「ああ……失敗したから、わかる。よくわかるよ」
「だったら、意地悪みたいに、守れるとか言わないでくださいっ!」
「いや、意地悪じゃない……そう、チャンスだ。君に、やり直しをさせるチャンス。今度こそ、守りきればいい。……やり直せば、いい……」
 急に三条は顔つきを変えた。
 まるで、柚実のことなど忘れてしまったかのように、視線を宙に浮かべたまま、唇を動かし続ける。
「ああ……それであいつは俺を……そう、俺も、やり直している最中なんだ。君も、やり直せばいい」
「勝手なことを言わないでください!」
 柚実の声など、届いている様子もない。
「俺はやり直す為に『三条尚起』になったんだ。ギルは、名前を……嫌みでも意地悪でもなく。そう、悔やんでるなら、悔やんでるからこそ、だったらせめて、自分がその代わりになればいい。怯えるんじゃなくて、もう一度、やってみなきゃ乗り越えられない……」
 三条の言葉に、柚実への苦言はないと判断。コージに目を向けるが、肩をすくめる。
「よくわかんないけど、三条さんも良いって言ってるし、俺も見張ってるから大丈夫だよ」
 それにと、コージは小さく笑った。
「〈特務〉が自分の家族に会えるなんて、そうそう無いからね。珍しい機会なんだから、ゆっくり話せば良いと思う。オレなんかまだ一年しかたってないけど、ベテランの中では十年単位で会ってない人もザラなんだから」
 はっとした。
 養父母たちに振り返る。
 コージはウーンと唸りながら、冗談半分で続けた。
「移動するよう説得するのに二時間三時間かかったって、仕方ないよ。ケネス隊長から連絡くるまで、説得してたっていいと思うよ?」
 母が父に、目で訴えかけていた。
「そうだね」
 父は天気の話をするかのように、さらりと告げた。
「ここに残っていれば、いつか柚実が迎えに来ると思ったのは事実だからね。少し時間をもらって、いろいろ話そうか」
 柚実は目頭が熱くなるのを感じた。
 二人は、ただのわがままで戻ってきたのではなかったのだ。
 ここに留まっていれば、親族として柚実が説得に現れると気づいた上で、危険を押して――おそらく、外見以上に怯えながら――柚実を待っていてくれたのだ。
 ここが、柚実の自宅だからだ。
 ここが、家族の集う家だからだ。
 だからこそ、この家を見捨てられず、恐怖に耐えて待っていたのだ。
 それに気づかず罵倒した自分。三条の言葉一つに動揺し、噛みついている自分。
 なんて、情けないんだろう?
 理不尽な行動に見えても、理由があるのだ。
 その理由を、その優しさを考えなければ、馬鹿な行動に思えてしまう。だが、それを考えるのもまた、優しさなのだろう。
 三条が即答し、コージが「何時間でも説得すれば良い」と言ってくれたのは、最初から父母の意図に気づいていたからだ。それも彼らの優しさなのだろう。
 今のままの柚実では、自分の感情に流されすぎている。考える余裕がない。考えるのは、美雪のことを忘れようとしている時、彼女の死を別の理由に転化しようとしている時ばかりだ。
――情けない。
 相田一裕の顔が脳裏に浮かんだ。舌打ちの声が聞こえたような気がした。
 彼のように、なにもかもに余裕があったなら、全てを察した上で、二人と会話できたのだろうか?
――情けない。
 母が柚実の手を取り、柚実は思わずしゃくりあげた。
「あらあらあら」
 母はびっくりしたように、エプロンからハンカチを出して柚実に握らせた。
 柚実が、いつだったか母にプレゼントしたハンカチだった。この危険な場所の中でも――もしかしたら、今着ている服が最後の衣装となるかもしれない中で――柚実のハンカチを持っていてくれたことが、柚実の涙を更に溢れさせた。
 柚実の手を引きながら、母は、未だに呆然としている三条とニコニコしているコージに声をかけた。
「みなさんどうぞ。お茶を煎れますね」



 母が茶の用意をしてくれてる間、柚実はコージと一緒に二階の自室へと向かった。
 〈特務〉で保護されるとなった時、私物の一部は母がまとめてくれたのだが、当然、全てが寮へと運び込まれたわけではない。
 高校時代の教科書やノートなど、〈特務〉としては必要ない品々は、今まで通り、机に並べられていた。制服も鞄もそのままで、いつでも通学できる態勢のまま、そこにあった。
 覚えてはなかったが、ドッペルゲンガーに振り回された弥彦と三条がぶつかった壁は破損していたらしく、補修した跡が残っていた。
 その跡だけが、あの頃と今を隔てる唯一の証拠であり、この部屋の主が戻りたくとも戻れない印のようでもあった。
「へぇ……緑高の生徒だったんだ?」
 コージは目を輝かせて、制服を眺めていた。
「緑高って、お嬢様って思ってたからさ」
「……現実はこんなもん。がっかりさせてごめんね、お嬢様じゃなくて」
「い、いやいや、そういう意味じゃないよ。この辺りの男子なら、みんな気になるじゃん?」
「それじゃ、社交辞令ってやつ?」
「そう、かな?」
 笑っても良かったが、涙がこぼれた後の頬はひきつっていて、うまく笑えなかった。それに気づいたのか、コージも一度は笑みをこぼしたが、すぐに真顔になる。
「……この騒ぎが終わったらさ」
「え?」
「この騒ぎが終わって、成人するまで〈特務〉に居てさ。成人したら……〈特務〉に残るかどうかの判断が自分に戻るから。今は法律で〈特務〉に入ってるだけのはずだから」
「そう、なんだ?」
「法律上はそうなってるはずだよ。未成年の能力者は、その能力の制動を学ぶ為、成人まで〈特務〉の監視下におかれているだけだから」
「へえ……」
「そうじゃなきゃ、お父さんたちが君を手放さないよ」
 コージは部屋を見回して、感心したようにため息を一つ。
「こんなに大事にしてもらってるんだから。オレの部屋がどうなってるかなんて、想像もしたくないね。たぶん、弟が多いから、奴らの部屋になってるんだろうけど」
 コージの家庭の事情も気になったが、柚実は途中になった話の続きが知りたかった。
「成人したら、コージ君はどうするの?」
「オレは〈特務〉に残るよ。どうせ、家でも学校でもパッとしなかったし、〈特務〉でもパッとしないけど……でも、こんなことがあった以上、あと十年はこの後始末に追われるだろうし。オレの給料が家族の口座に入れられてるはずだから、こういう仕事も悪くないと思って」
 でも、とコージは続けた。
「柚実ちゃんはここに戻りなよ。成人したら、第三種免許をとって、曲がりなりにも一般人の生活をすることもできるから。〈特務〉にいたなら、免許、すぐに取れるって聞いたし」
「戻れる?」
「また戸籍上でいろいろ面倒があるみたいだけど、できない事じゃないんだ。ただ、社会人になってから〈特務〉に来る人も少なくないし……いろいろ聞いてるけど、能力者がどんな目にあうかわからないけど――」
 コージは自信なさそうにそこまで言って、柚実の顔を見た。
 柚実自身はどんな顔をしていたのか覚えていないが、コージは彼女の表情に、何か直感を得たらしい。
 でも、と力強く続けた。
「柚実ちゃんなら、大丈夫だよ。お父さんやお母さんも良い人だし、柚実ちゃん自身も、良い人だし」
「良い人? どこが?」
「自分のことはわからないもんだよ。でもオレ、柚実ちゃんは良い人だと思うよ」
「だから、どこが?」
「たとえば……ほら、すぐ泣いちゃうところ」
「え? なに、それ?」
「柚実ちゃん、まだあの子の事、気にしてるんでしょ? それだけで十分、良い人だと思うけど」
 コージは階下からやってきた三条の姿に気づいて、肩をすくめた。
「オレなんか、柚実ちゃんが気にしているのを見る度、同じ隊の人たちがあんなに簡単に亡くなっちゃったのを、それこそ簡単に忘れちゃったような気がして、自分が冷たい人間になったような気がするよ」
「そんなことないよ! コージ君、いろいろ気を使ってくれてるし、それに――」
 柚実の言葉をコージは手で遮って、三条に目配せする。
「お茶の時間ですか?」
 三条はコージの思いがけない陽気さに気圧されたのか、黙って頷いた。



 養父母たちは、三人に紅茶を用意しながら、神妙な顔でたたずんでいた。
 テーブルは三人家族の為に、予備も含めて四つまでしか椅子がない。
 三条は遠慮するコージを無理矢理座らせ、自分はカップを手に近くの柱へともたれかかった。
 紅茶の香りが部屋中に満ちてるなと、柚実はぼんやり思った。その中で、妙に恐縮しているコージの挙動に苦笑したり、三条の〈特務〉のジャケットが血糊でドロドロに汚れてしまった代わりに――まあ、当然といえば当然だが――新調されていて、真新しくて眩しいぐらいだなとあらためて気づいたり。
「実はな……お前に会いたかったのは、気がかりな事が一つ、あったからなんだ」
 父がまだ迷うように言葉を探しながら切り出す。
 母は、アレのせいで、と口を挟んだ。
「アレのせいでなんだけど……演説があったでしょ? テロ組織が、今回は手を貸すって」
「……〈E.A.S.T.s〉の?」
「そう。それ」
 再び目で訴える母に促され、父は渋々といった調子で口を開いた。
「お前の、実のお父さんたちの話だよ。柚実たちの両親の話」
 両親の話は、何度か聞いたことがある。
 体の弱かった柚実が、病院に向かう途中で事故にあったこと。
 同行していた和政と柚実は、ほとんど無傷で助かったが、両親は即死であった事。
 親族内で話し合いが持たれ、母の従兄弟である今の養父母が引き取ることになった事。
 和政や柚実の名字が変わらないままで縁組みができるという事情もあっての選択だったこと。
 事故について、柚実は熱に浮かされていて前後不覚であり、全く覚えていないこと。
 和政は、養父母がどれだけ尋ねても、決して事故の全貌については語らなかったこと。
 柚実が知っているのは、そんなものだ。
 だが、養父は、思いがけない事を話しはじめた。
「事故の事は、嘘なんだ」
「ウソ?」
「事故ということにしておこうと、親戚一同で示し合わせていただけなんだ」
「……どうして?」
「和政は仕方がないが、あの時の事を覚えていないお前が、ショックを受けるんじゃないかって思ってな」
「どういうこと?」
「うーん、どこから話そうか……そうだな……」
 少しためらった後、父は――養父は、きっぱりと言い切った。
「お前の両親は、〈E.A.S.T.s〉が病院を占拠した時に、巻き込まれて死んだんだ」



「二人はサラリーマンだったと言ってたけど、本当は違う。二人とも、大病院の医者だったんだ。この大陸に入植がはじまった頃からある病院で、風土病の研究が特に有名だった。二人は研究者として病院に勤めていたんだ」
 嫌な予感がした。
 風土病や伝染病の研究で有名だった大病院。
 そして、テロ。
 どこかで聞いたことがある。いや、今でも過去の大事件として取り上げられる事件。
「二人は、子供が産まれた時に驚いた。一人だと思っていたから、和政の名前しか用意していなかったんだ。男の子か女の子か、わからないほうが自然でいいって、検査は受けていたけど、人数も性別もあえて伏せてもらっていたそうだ。でも母親の方が、これだけたくさん動くなら男の子だろうって言って、男の子の名前だけ考えていたとか。……これは、後から病院の人から教えてもらったことだけどな」
 病院の人たちに聞いたのは、柚実たちを引き取るにあたって、なるべく、両親たちと同じように柚実たちの事を知りたいし考えたいと思ったからだという。
「女の子の名前をどうしようか迷っていた時、病院の庭に初めて柚の実がついて、それで柚実ってつけたんだそうだ。これも何かの縁だろうって。見ても良し、香りも良し、体にも良しと、人には役立つことばかりだしって」
 両親は心の底から医者だったんだろうなと、養父は言った。
 柚実の名前も、和政の名前も、医者のように誰かの役に立つのが前提に名付けられたんだと。
「和政は、元々、お父さん方の爺さんの名前だったそうだ。和をもってマツリゴトができる人間になって欲しいからって事で、名をもらったんだと。集団をしっかりまとめて率いられる人間になって欲しいと思ってたんだな。今時の医者ってもんは、どうしてもチームで患者に当たらなければならないから、そして、しっかりしたチームでなければ、確実に人を助ける事はできない、人の為に人をまとめる人になれってな。二人は、和政を医者にしたいと思っていたんだろう」
 柚実はしばらく養父の顔を眺めた。
 思いがけない角度から、思いがけなく自分の出生について語られたのだから、驚いてしまって、何を話せば良いのかわからなくなってしまったのだ。とはいえ、今まで知らなかった名前の由来について、どこかで安堵した気持ちがあったのも事実だった。
「……知らなかった。どうして双子なのにこんなに名前が違うんだろうとは思ってたけど……」
「聞かない方がよかったか?」
「ううん、聞いておいてよかった。ちゃんと意味があってよかった。だって、柚の実なんて、どうしてつけたんだか全然わからなかったから。私がいることを調べなかったとか、なるべく自然にお産することを大事にしてたわけでしょ? 名前の事もそうだけど、二人が自然ってものを大事にしていたお医者さんだってわかったし」
 柚実はいつの間にか、何度もうなずきながら語っている自分に気づいて、その動きを止めようとした。
 ほんの数秒止めていたが、すぐに動き出してしまう。
 コージや三条のいる前で、家族の秘密が明かされたようなものだ。どうにも、気恥ずかしいような怒りたくなるような、心のざわつきがある。その解消の為に、頷いてしまうのだ――自分でそう納得し、諦める。
「お兄ちゃんの名前の由来も初めて聞いたし。全然関係ない名前だと思ってたから、どこかで意味が同じだったなんて考えもしなかった。二人に聞いても知らないだろうしって、諦めてたから。……一応、『人の為になる人になれ』っていう、同じような意味で付けられたってことなんだね?」
 この騒ぎの中、どこかにいる双子の兄は、この事を知ってるんだろうか?
 柚実は改めて、兄の安否を思った。
 今まで自分の事で精一杯だったが、兄だってこの騒ぎの巻き込まれているはずなのだ。
 自分と同じように苦しんでいるかもしれない。
 今まで全く関係ない生活をしてきた兄だったが、今や自分も〈特務〉だ。
 同じような名の由来を持つ、たった一人の肉親は、どこになるのだろう?
「ありがとう、教えてくれて」
 養父はほっとしたように笑った。
「そうか。それじゃ、それだけでも、ここで待っていたかいがあったな」
 そして、すぐに顔を引き締めて話を続けた。

「柚実は生まれた直後から体が弱かった。すぐに熱を出したし、そのせいで暴れるのか、毛布でくるんでも手袋をしても、這いだしては擦り傷や噛み傷を何度も作って、そしてまた高熱を出すことの繰り返しだったそうだ」
 体が弱いのに、暴れてしまう子供。
 矛盾しているが、それが柚実という赤ん坊だったという。
「高熱が何日も何度も続いて、意識不明になる事も度々あったから、柚実はよく入退院を繰り返していた。そのせいか発達も遅くて、五歳になっても同年代より一回り小さかったらしい。今の柚実とは正反対だな。……高熱のせいか、前後の記憶をほとんど無くしているという事も珍しくなかった。でも二人は医者だっただけに、柚実の体調不良をただの子供の熱だと思いつつ、どうしても疑い続けていた事があった」
「何の疑い?」
「自分たちの病院で研究している風土病や伝染病の影響だよ。厳重に管理されているはずだけど、どこでどう漏れるかわからないだろ? その最初の犠牲者が柚実になりうるとも思っていたんだ。〈フリーク〉や能力者だって、風土病の一種だっていう研究もあるだろ? 事実、風土病の一つには、高熱に伴う軽い健忘症もあったからね」
 だからと、養父は続ける。
「柚実が熱を出して入院が必要になる度、二人は自分たちの病院に入院させた。仮に風土病だとしたら、最新の治療を受けられるし、自分たちの病院だけに、ベッドの融通もきいたからね」
 そんな柚実の病弱な体質を、和政はずっと悩んでいたようだと看護婦は話してくれたそうだ。
「双子のお兄ちゃんだけに、お母さんのお腹の中で、柚実に意地悪をしちゃったんじゃないかって。自分が体が丈夫なのは、柚実の分の栄養を和政が取っちゃったからじゃないかって。子供ながらに責任を感じて、いつもお見舞いに来ていたそうだ」
 ベッドの脇に座る、五歳の男の子。
 妹の為に、自分を責めるような優しい男の子。
 その子の為にも、両親は柚実の回復を願っただろうし、見守っていただろう。
「そして、あの日の、あの事件が起こった」
 病院を襲ったテロリストたちは、風土病の研究に使われた病原体を奪おうとしていた。
 騒ぎは〈特務〉の介入によるテロリストたちの射殺と自殺によって幕を下ろしたが、風土病研究の一部が消失し、培養されていた病原体の一部が死滅。風土病に対する研究が大きく後退しただけではなく、なんらかの手段で病原体が外部に持ち出された可能性もあり、テロ対策にバイオテロの項目が大幅に追加される事にもなった。
「〈E.A.S.T.s〉のテロリストが全員射殺されて、〈特務〉が突入した時には、病院の関係者の半数が殺されていた。患者たちも治療を停止されたせいでずいぶん多くが亡くなった。そして、お前の両親も射殺されているのが見つかった。どちらも頭部を撃ち抜かれての即死だった」
 事故なんかではなかった。
 事故は、過失だ。
 何かの間違いで生じた結果なのだ。
 しかし、射殺は違う。
 〈フリーク〉とはいえ、人体を破壊した柚実には痛いほどわかる。
 射殺とは、誰かの悪意によって引き起こされた結果だ。誰かが、その人体を破壊しようとしなければ起こり得ない。
 両親は、殺されたのだ。
 確実に、〈E.A.S.T.s〉によって、殺されたのだ。
「和政は、〈特務〉が突入する前に、お前を背負って病院を脱出した。厳重に包囲されていた病院で、どうやって逃げ出したのか、逃げ出せたのか……和政は絶対に話さなかった。ただ、間違いなく言える事は……五歳の男の子が、同い年の、意識不明の女の子を背負って歩くことがどれだけ大変なことか。病院の廊下だけでも五歳の足では長かっただろう。それは、お前にも想像がつくだろう?」
 柚実は覚えていない。
 そんな大変な事態の中に放り込まれていたというのに、何も覚えていなかった。
 和政はそれを覚えているのだ。
 柚実が知らない分だけ、和政は全て背負って、今でも生きているのだ。
 ふと、柚実の脳裏に相田一裕の顔が浮かんだ。
 同い年であるにもかかわらず、〈特務〉に所属している人間。〈特務〉の、〈軍部〉のことを何一つ知らずにいる柚実を馬鹿にしていた男。
 彼も、兄と同じように、大きな過去を背負ってしまったのだろうか?
 実際に、柚実は何も知らない。何も知らなかった。
 自分自身の事さえ、知らなかった。
 蔑まれても仕方がないとすら思った。
「和政は、脱出後、すぐに〈特務〉の医者によって保護された。高熱で重体だった柚実が助かったのは、その医者の適切な処理のおかげだったと、〈特務〉の人が教えてくれた」
 ああと、三条が声をあげた。
 紅茶の中にある自分の姿を眺めているように、カップをわずかに傾けて持ちながら。
「ようやく、わかりました」
 柚実と養父母、そして思いがけない話の展開にのめり込んでいたらしいコージが、不意の言葉に呆然と顔を向ける。
「わかった?」
 養母の問いかけに、三条は忌々しげに告げた。
「ずっと不思議だったんです。柚実ちゃんと、佐々木和政と……どうして奴が面倒を見ていたのか」
 『奴』。
 三条がそんな言い方をする人間は、柚実は一人しか知らない。
 柚実はぼんやりと、その顔を思い浮かべた。あの恐ろしい絶望を想起させる眼鏡の奥の瞳をのぞいて、ぼんやりと。
「その軍医は……柚実ちゃん達の命を救ったのは、ギル・ウインドライダーなんですね?」
 養父はしばらく黙った後、柚実の視線に耐えられず、静かに「そうだ」と答えた。
 三条は続ける。
「だから、柚実ちゃんを助けに来た時、貴方たちはすぐに柚実ちゃんを俺たちに引き渡したんだ。あの時助けてくれたギルなら、間違いなく助けてくれるとわかっていたから」
「確信があったわけじゃないです」
「だけど、他の〈特務〉よりは信用できる?」
「……そうとも、言い難いです。和政はともかく、柚実は女の子だし。あの医者が何を考えているのか、わからなかったのも事実でしたしね」
「でも、信用した」
 養母は、三条に挑むような目を投げた。
「あの医者だけだったら信用しなかったでしょうね。でも、柚実の時は、あなたも一緒だったでしょ? あの軍医さん以外の人たちは、みんな親切で礼儀正しかったし、柚実の荷物を受け取りに来てくれた時だって、一緒に掃除しますとまで言ってくれたんだから。あの医者が変な事をするとしても、あなた達が止めてくれるって信じてたからです」
 荷物を受け取りにきたのは、木伏か弥彦のはずだ。
 なるほど、あの二人なら言い出しそうな言葉ではある。
「ならば、和政の時には?」
「それが、わからないんです」
「わからない? どうして?」
 養母の困り果てた顔から、養父が話を引き取った。
「それも含めて、柚実には話しておかなければと思ったんだ」
 再び、話が元に戻ってきた事に気づき、柚実は手元の紅茶を一口すする。
 紅茶はすっかり冷めてしまっていて、アイスティーのようですらある。
 気がついたら、喉が乾ききっていた。
「ギルという軍医に、私たちは会った事がなかったんです。柚実を引き取ると言い出した時に、はじめて、この軍医が、あの、小さかった柚実と和政を助けてくれたギルなんだと知ったぐらいで」
「あいつに会ったことがないのに、子供を引き渡したんですか?」
「代理の人が来たんですよ。すごく真面目で、礼儀正しくて、誠実な感じの〈特務〉の人だったんです。貴方たちとも少し違った感じですが、この人なら、和政と一緒に事件の傷を乗り越えてくれるんじゃないかと思ったんです」
 養父はため息をついた。
「和政が事件の事を話さないので、ギルが何度かカウンセリングをしたと聞いています。結果として、和政は幼年学校から〈軍部〉に入りたいと言い出しました。それは私たちも本人から聞いてます。だけど、私たちは〈軍部〉の事など全くわかりません。相談しようにも、ギルという人は多忙でこちらには来れない、だから代理を立てると言うし。その代理の人が信用できたから、和政を預けるつもりになったんです。ギルが後見になるから、〈軍部〉でおかしな立場になることはないと言われて」
「代理? ……アキオさん?」
「そんな名前は、手続きの中でも、聞いたことがない」
 柚実には、ギルの代理になる人など見当もつかない。
 木伏や弥彦が最近小隊として派遣されてきた人材だと知っているし、アキオならそういう事を楽しんでやりかねないと思ったのだが。
「というか、代理人もずっとギルと名乗って行動していたから、本名を知らなかったんだ。〈特務〉なので、本名を語る権限はないと言っていたんだが……今思うと、あれは嘘だったのかもしれない」
 ギルの代理?
 さすがにこの件に関しては、三条にも思い当たる人物が見あたらないようだ。
 養父は苦々しく、柚実に向かって口を開いた。
「その代理の人だったんだ」
「……どういう意味?」
「あの、テロリスト達の演説をしたのは、ギルの代理人だったんだ」
 テロリストたちの演説をした人?
 〈特務〉の三人は、一斉に口をぽかんと開けた。
「演説って……あの、〈E.A.S.T.s〉の演説ですか? だってあれは、〈E.A.S.T.s〉の首領の、レザミオンの演説ですよ?」
 コージが慌てたように早口でまくし立て、養父母たちは互いに確認するように顔を見合わせた後、ほぼ同時に頷いた。
「だからわからないんだ。〈特務〉のギルの代理が、〈E.A.S.T.s〉の首領ってことになるからね。和政は間違いなく〈特務〉に所属している。ギルに連絡を取ったとしても返事はない。あの代理の人だけが頼みの綱だったのに、よりにもよって、お前達の敵だった〈E.A.S.T.s〉の人間だったなんて……お前達の両親に、本当に申し訳ない」
 養父は急に頭を下げた。養母も急いで頭を垂れる。
「本当に、すまない! 私たちも、あの演説さえなければ安心していたんだが、和政を〈E.A.S.T.s〉に渡してしまったのかもしれないと思うと、居てもたってもいられなくなってしまって……」
 柚実に対して深々と頭を下げ続ける養父母。
 だが、柚実は困惑するばかりだ。
 和政とギルの繋がりも驚いたが、それ以上に、そのギルと〈E.A.S.T.s〉がつながっているかもしれないという事実にも驚いた。
 〈E.A.S.T.s〉とギルがつながっているとして、三条はどう動くだろう?
 ギルを信じてるという意味では、おそらく、彼はギルの指示を信頼している。
 それとも、三条も〈E.A.S.T.s〉なのか?
 いや、先の養父の告白を見る限り、三条にも初耳だったはずだ。ならば、彼はどうするんだろう?
 それよりも何よりも。
 実の両親よりも両親だと認識していた二人が、まるで他人のように自分に頭を下げている。
 外の光景と同じで――不思議で、奇妙で、見ていられなかった。
「和政の身も心配だけど、これから本当に〈E.A.S.T.s〉と協調するっていうのなら、お前には話しておかなければならないと思ったんだ。この先、どこかで和政に会った時の為にも」
 ようやく顔をあげた二人の顔が、柚実には酷く不自然に見えた。
 まるで、二人が〈フリーク〉になってしまったようだとすら、思った。



 ギルの代理人は、何度も足を運び、養父母と談判した。和政には毎月、手紙と写真を送らせると約束した。
 その人がなぜテロリストの皇帝など名乗っているのか。
 事情はわからないが、和政が〈軍部〉に入隊できたのは事実だった。少なくとも和政はきちんと庇護を受け、幼年学校へ通い、優秀な成績で卒業したのだろうとすら推測できた。
「むしろ、あのテロリストたちの行動のお詫びだったのではないかとすら思うんだが」
 養父母がそう迷うほど、経緯は不可解に思えた。
 直に話した時にも、あの演説を見た時にも、養父母にはあのレザミオンと名乗ったギルの代理人が、悪い人とは思えなかったという。
 事実、彼がが約束したように、手紙と写真は和政が〈特務〉に配属される時まで、欠かさず送られてきた。



 三条はテーブルの上に自分のカップをおくと、黙ってベルトに装着していた端末入れのポケットから、通信端末を取り出した。
 制服の襟元につけられるべきホットラインのスピーカーとマイクだ。皆の見守る中、スイッチを入れる。ボリュームを最大にして見せる。
「……木伏さんですか? 三条です」
『三条さん?』
 音量に耐えられずに割れた声を放つ小さなスピーカー越しでも、木伏の驚きは伝わってきた。
 何を始めたのかと固唾を飲んで見守る一同の視線の中、三条は険しい顔で話を進める。
「そこにギルはいますか?」
『いる、けど……』
「けど?」
 木伏の返答はなかった。代わりに
『どうした?』
 ギルの声だ。通信に気づいたのだろう。気だるい調子だったが、はっきりとした声色に、柚実は安堵した。
 柚実にとっては、久しぶりに聞いた声だ。いや、そんなに日はたっていないはずだが、いろんな事がありすぎて、遠い昔のような気がするのだ。
 コージが柚実の腕を小突いた。本物かどうかを目で尋ねてくる。彼にとってギルは、ケネスやアーガイルから聞いてるだけの、恐ろしい『本庁の妖怪』のままなのだ。
 会ってしまえば良いのにと、柚実はわずかに笑う。そうすれば、彼が――確かに怖いところは多々あるにせよ、そんなに怖い人ではないとわかるのに。
 少なくとも今は、何度も彼に助けられていたのだと知った柚実としては、彼の悪評が残念でならなかった。
 柚実とコージのやりとりなど意に介さず、三条は話を続ける。
「レザミオンについて知りたい」
『なぜだ? 今更知っても意味がないだろう?』
「あんたが和政を引き取った時に、〈E.A.S.T.s〉のレザミオンを代理人にしてたってわかったからだ」
 しばしの沈黙。
『なるほど……正確には、あれはレザミオンじゃない。あいつはレイムーンだ』
「レイムーン?」
『レザミオンっていうのは、あいつの国の古語で〈光る月〉や〈月光〉って意味だ。そこから作られた名前だな。レイムーンは、レザミオンの影武者として作られたクローンだ。〈アカデミー〉の連中がドッペルゲンガーの研究中に確立した技術で作られていて、成功例はレイムーンを含めて三体しかいない。だが、レザミオンの影武者はレイムーンだけだ。他二人については、今は知る必要もないだろう』
「影武者? 影武者が、あの演説をしたのか?」
『それについては後で直接話す。お前の聞きたかったのは別の事なんだろう?』
 三条は皆の注目を意識したのか、ちらりと柚実の目に視線を合わせた。
「レイムーンが和政を引き取ったとわかった以上、あいつと〈E.A.S.T.s〉の繋がりが気になってるんだ。もちろん、お前と〈E.A.S.T.s〉の繋がりもだ。どうしてレイムーンとやらが……いや、待て。おかしいだろ? どうして〈軍部〉の一部である〈アカデミー〉が、〈E.A.S.T.s〉の影武者なんか作ってんだよ?」
『……全く、どこで油を売ってるのかと思えば、変な事に気がついたもんだな』
 紫煙を吐き出す音が聞こえそうな声色だった。
『それも後で直接話そう。このホットラインは記録されている。クラックしても良いんだが、今やるのはまずい。少しおとなしくしてろ』
「待てよ。それじゃ、一つだけ教えろ」
『なんだ?』
「……レイムーンは、レザミオンと違って、お前が代理を頼めるほど信用できる人間なのか?」
『愚問だ』
 唐突に、通信が切れた。
 緊張していた皆が、一斉に大きな息をつく。
「あの言いようなら、随分と信用できる人物らしいな」
 三条は先と同じように端末をポケットにしまいながら、驚いたように肩をすくめてみせる。
「レイムーンとやらがどこに所属してるにせよ、ギルが信頼してるなんて相当の人物ですよ。その人が引き取る時に約束したなら……逆に、〈E.A.S.T.s〉と〈特務〉の、両方から保護されていたと考えても良いかもしれない。本当に、あなたたちが言っていた、償いだったのかもしれない」
 ほっとしたような養父母たちとは対称的に、コージが首を振る。
「そんなことがあるんですか? テロリストと〈軍部〉が手を結ぶなんて? 〈アカデミー〉の事とか、どう考えてもおかしいですよ」
 三条は再度、紅茶のカップを手にしながら答える。
「いや、全くおかしな話ではないのかもしれない。たとえば、ずっと前、こんな出来事が起こるとは思ってなかった頃から、最終的にはあの演説をするつもりで〈軍部〉と〈E.A.S.T.s〉は協力しあっていたのかもしれない。だとすれば、〈軍部〉や〈特務〉にレイムーンとやらが居てもおかしくないし、俺たちには唐突だけど、あの演説が行われたのも、本当は何十年も前からの、予定通りなのかも知れない」
「だとしても……だったら尚更、今日までの間に〈E.A.S.T.s〉に殺された人や身内の人が報われないでしょう!」
「だからといって、何もしなかったよりはマシじゃないのか? それに、ダラダラ受け入れ協議なんかしてみろ、そういう遺族が絶対に反対する。泥沼になって、協調なんてできやしないぞ? いっそのこと、こういう異常事態で協調するしかない状況を利用した方が、よっぽど綺麗にまとまるってもんだ」
「……表面上は、ですよ」
「表面上でも、くっついてないよりマシだと言ってるだろ」
 険悪な二人を、佐々木一家が割って入った。取りなすように、養母が二杯目を用意する。
 その間に、養父は近くの棚から一枚の写真を持ってきた。
「和政はね、ちゃんと毎月写真と手紙を送ってきてたんだけど、〈特務〉に入る時、私たちや柚実に迷惑がかからないようにって、全部持っていったんだ」
 〈特務〉入隊の報告がてら、帰宅した時なんだという。
 柚実が部活の合宿に行っている事も調べた上での、計画的な帰宅だったそうだ。
「柚実には普通の生き方をさせたいから、万が一、自分と接触した時にも、顔や性格がわからない方が安全だろうって」
 だが一枚だけ、養父母たちですら忘れていた写真だけは残った。気がついたのは去年だったが、自分達までもが和政の顔を忘れてしまうような気がして、大事に保管しておいたという。
「和政は知らない方が良いと言ってたけど、いまやお前も〈特務〉なんだから、知っておいた方が良いと思うんだ」
 養父は、養母にも写真を見せ、二人で懐かしいと囁き合った後、うやうやしくそれをテーブルの中央に置いた。
 期待に満ちて覗き込んだ柚実とコージはドキリとし――互いに助けを求めるように顔を見合わせ、そして三条に目をやった。
 やや幼い気配はあるものの、そこに居たのは間違いようのない顔だった。
 相田一裕。
 三条は二人の無言の問いかけに、かなり長い沈黙の後、「そうだ」とだけ答えた。







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