R-T-X 「10・路上と青年(中)」
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 酒上誓子はゆっくりと、投げやりにすら感じる動きで〈E.A.S.T.s〉の面々に腰をおろすように促し、ギルと木伏に向かって手招きした。
「こちらのソファにどうぞ……早く休みたいでしょう?」
 ギルはその仕草に苦笑して見せた。
「知ってるか、セイコ。そこの大佐とやらが何年、何十年の間、私を〈軍部〉から引き抜こうとしていたか? それに、その黒ずくめのガキが何トン級の爆薬に相当する力を操れると思える? そこのお嬢ちゃんは初見だが、人の心臓の一つや二つ、簡単に止められるだけの能力者だぞ? そうじゃなければ、その二人が護衛に使うもんか」
 誓子はつかの間、〈E.A.S.T.s〉の面々を横目で睨んだ。涼しい顔でその視線を受け止める三人に、誓子もすぐ目先をそらす。
「では〈西方協会〉さんはどうかしら? そんな部屋の隅でずっと立っているのも、無粋というものでしょう?」
 無意識になのだろうが、ミツヤもまた、ギルと同じように苦笑しながら返答する。
「お気遣いはありがたいのですが酒上博士、私は『現代の錬金術師』が避ける場所へ落ち着いて座れるほどの勇気は持ち得て居ませんので。それに――」
 彼はわずかに目を伏せ、こめかみに指を当ててみせる。
「――私の仲間達が命がけで戦っている最中です。〈西方協会〉の一人として、座してのうのうと手足を伸ばすわけにもいきません」
「君たちお得意の精神論だね」
 黒ずくめの魔術師――トレイルが手にしている杖で、空いているソファを指し示す。
「座りなよ、ミツヤ。魔紋回線を使うのに場所や姿勢が関係するもんか。君が真っ直ぐ突っ立っていれば死人が減るってわけでもあるまいし。私たちも今すぐ君を取って喰ったりはしないさ、物事には順番ってものがあるんでね。そうだろう、レザミオン?」
 先刻レイムーン大佐と呼ばれた男は同意を求められ、やんわりとトレイルに向き直る。ミラーグラスにトレイルの全身を映し出し、落ち着いた、どこか笑いを含んだ声で囁く。
「レザミオンは、これから放映されるビデオの『彼』の名前。今の私はレイムーン大佐。そうだね?」
 トレイルはニヤリと笑って「そういうこと」と皆に目を向けた。
「今のは無し無し。ま、顔見知りのメンバーばかりなんだから、そう神経質にやる事はないと思うんだけど」
「『物事には順番ってものがある』、たった今そう言ったのは君だろう。まだ『レザミオン』の順番はまわってきてやしない」
 ミツヤは二人のやりとりを眉をひそめて見守ったが、やはり酒上の勧めた席には移動せず、姿を現した部屋の隅の壁にもたれてモニターに目をやる。変型スーツのポケットに両手を突っ込んだまま、窓辺からの日差しに照らされた彼の姿――それは彼の実物を眼にしたことがある木伏にも、この異様な人々が彼を〈教皇〉と称す理由を納得させるに足りる立ち姿だ。肩書きにふさわしく、宗教画にも似た緊張感を湛えている。
 木伏には、正体のわからぬ面々の中にあって、ほんのわずかでしかない接点だが、見知った顔と助けを期待できる空気を持つミツヤの姿は、いうまでもなく心強い存在であった。
 もちろん、ギルを頼りにしていないわけではないが――理解できないギルの姿を見たばかりの木伏としては、初対面の人物同様、どこかで心の距離をとってしまうのもまた事実なのである。



 緊急報道として市街戦の様子を解説していた画面が、不意に慌ただしく動き始めた。
 映像が乱れ、不愉快なノイズが何度も空気を震わせ、そしてパタリとその混乱をおさめた。
 静寂。
 切り替えられた画面の中は、真っ白な壁に蒼い旗――〈E.A.S.T.s〉の腕章そのものである、白と金の翼の紋章を中央に据えた蒼の旗――が掲げられた一室だ。
 その前で、同じ色調の蒼の軍服と白いケープを羽織った男が堂々と白い籐椅子に腰掛けている。画面だけ見ていれば南国の政権放送のようにすら思えるが、この大陸のどこかで無数に潜伏しているテロリストの、その頭目による報道であるのは間違いないのだ。
 細面の女性のような顔立ちに、爛々と輝く蒼い瞳。〈E.A.S.T.s〉のカラーである蒼は、この瞳の色に由来するのだろう。銀色の長い髪は軍服と比較して噛み合わないものに見えなくもなかったが、この人物に関して言えばそれは、彼のカリスマ性――先日、ギルに協力を申し出るべく現れたミツヤの、あの時の語り口にも似たどこか人を引きつけるもの――を、更に神秘的にさせる道具として存在しているに過ぎなかった。
 映像の中、彼はハキハキとした力強い唇の動きと鋭さを感じさせる硬い頬で、静かに語りはじめた。



『私は第329代シラトス皇帝にして、我らが〈星の民〉《エーテリアン》を解放する剣たる人々、〈E.A.S.T.s〉を率いるレザミオン・フォウ・イルホォウラである。
 この度、我らが帰るべき約束の地で起こりつつある災禍に対し、またそれらの犠牲となった人々に、心からの遺憾と悲嘆の意を表したい』



 声色は外見のたおやかさよりもずっと低く引き締まり、緊張感を持って紡がれる短い言葉の一つ一つを丁寧においていくような印象を与えた。ただのテロリストの頭というより、知的な思想家を前にしているような、声と言葉に相手を逃さないものを含ませる事のできる人物だ。
 ミツヤが太陽のように光と熱を届けて他者を慈しむ人間だとすれば、このレザミオンと名乗る人物は、共に冷たい水の底の絶望に身をゆだね、共にその苦しみを分け合ってくれる人物のように思える。
 そしてどちらも、相反する魅力で他者を引きつけるのだろうと納得できる空気を持っていた。



『このような忌むべき時が再び訪れたからこそ、私はあえて告げる。
 我々の世界は大きく変貌した。
 諸君、我ら〈星の民〉《エーテリアン》とそれに連なる者達よ。よく聞いて欲しい、我々の世界は今や大きく変貌したのだ。
 最後の〈約束の石〉《セプテンバー・ナイン》の到来が遠い記憶の彼方に過ぎ去り、彼の地の記憶を有する新たな同志との対面もかなわなくなってから幾千の月日が過ぎたであろうか。三百年前にこの約束の地が現れた時の感動を覚えている魔術師諸君もいるだろう。失われた世界への思慕と手の届かぬ苦痛に我が身を嘆いた夜も終わりを告げたのだと。
 それにもかかわらず、われわれがこの地を安住の地とするべくおこなう活動は、いまだに世界中で論争の的になっている。そして我々はその活動の歴史において、多くの同胞、多くの血族を失った。われわれは今日でも、その英雄達の最後にして最先端の継承者であることを忘れてはならない』



 木伏は〈E.A.S.T.s〉の面々を気にした。
 〈Extra Aetherian Side Team s〉――かつてこの世界にあった〈クローニング・ゲート〉と呼ばれる自然現象によってこの世界にやって来たと言い張る一団の、過激派組織である。〈クローニング・ゲート〉は年に一度、この星の全体を漆黒で覆ってしまっていたという、未だに原因の究明されていない超自然現象だ。何が原因で消えてしまったのかわからないが、ちょうどこの大陸が浮上した頃――といっても、長い歴史でのニアミスだ、数十年単位のズレがあるが――パッタリと出現しなくなってしまった。
 しかしそれらに神秘性を求めた人々が、そして自分たちの優位を説明するべく利用した輩が、〈向こう側から来た者達〉という触れ込みでこの自然現象を利用したのも頷ける話である。
 そして、時期を前後して出現したこの大陸を、〈クローニング・ゲート〉の置き土産として自分たちのものだと主張するのも、感情的にはわからないでもない話である。
 だがその主張を通す為に、彼らが実際に行ってきた事は、罪のない人々の虐殺である。
 この大陸の歴史は、各国の研究者がその大陸浮上の謎を調べる為に入植した事からはじまった。共同統治と各国の思惑による小競り合いもなかったわけではないが、殆ど軍隊らしい軍隊もなかった当初のこの地において、最初の軍事行動を取ったのはこの〈E.A.S.T.s〉なのである。彼らは見境なく、武器を殆ど持たぬ学者達を殺害し、研究を破棄し続けた。大国に反感を抱く小国の後押しを受け――これらの支援は〈E.A.S.T.s〉の特殊能力者達の軍事的な技能で支払われたと言われている――自らの国である事を宣言した〈E.A.S.T.s〉だが、国際舞台での承認を得るまでの根回しには至らず、結果的に国際社会からテロ集団として駆逐されてしまった。
 その時、〈E.A.S.T.s〉を追い出す軍を出動させた近隣諸国が、共同統治の形から発展させたのが現政府であり、共同統治時代の名残から、最高議会としての〈六人議会〉が残されているのである。現在は四人の国会選出の特別議員と、二人の〈軍部〉及び〈特務〉選出による特別議員の六名によって構成されているが、元来は近隣六国の外交官による最終調整の場であった。
 そんな経緯から、〈E.A.S.T.s〉とこの国の〈軍部〉は、元より犬猿の仲なのである。〈軍部〉の一部が辺境の警備を怠らないのも、何よりも彼らの行動を警戒してのことなのである。
 それに、今までに何度も、〈E.A.S.T.s〉は大規模なテロ活動を行ってきている。
 最近で最も酷かったのは、十年程前に起った、とある大学病院を乗っ取っての破壊活動だった。その大学病院は伝染病や風土病の研究に力をいれており、テロリスト達はそれらの病原菌を手に入れるのが主な目的であったらしい。だが彼らが人質にとった病人や怪我人は、二次被害者として、手当を受けさせてもらえずに次々死亡し、また、テロリスト達の暴力や発砲によって多くの人々が死傷した。民間施設だった為、この行為には諸外国から多くの非難が寄せられたが、〈E.A.S.T.s〉は形だけの謝罪を行っただけで、自分たちの尊い独立運動の犠牲としてやむを得ぬ事だったのだと言い切っていた。
 木伏は知らぬ間に、モニターに向かって眉根を寄せる。
――彼らが英雄?
 ギルも、そしてミツヤも一目置く人々。だが、彼らのしてきた事を知っている木伏としては、とても演説にあるような言葉――英雄だなどとは思えない。
――英雄っていうのは……。
 木伏はふっと、脳裏を過ぎった力ない笑みを思い出した。
 彼の名前は三条尚起、いや、〈赤目のフリーク〉。
 どこにも所属せずに百五十年前の災厄を戦い、人々を守り、そして今まで消え失せていた異能力者。なんの見返りもなく、何も受け取らずに去っていった彼こそが、都市伝説の妖怪ではなく、真に英雄と呼ぶべき存在だったはずだ。
――そしてこの人。
 自分の傍らに立つ、血塗られた白衣をまとう男。
 〈赤目〉のサポートをしてきたギル・ウインドライダー。彼もまた、名も無き妖怪にして英雄ではなかったのか。
――本当に?
 本当にギルは、英雄か? 自分を狙ったというだけで、他者を虐殺する彼は英雄の名にふさわしいのか?
 彼と〈E.A.S.T.s〉と、力ない人々を殺すという事実に、どれだけの違いがあるというのか?
 戸惑う木伏をおいて、演説は続いていく。



『我々の失われた世界の長い歴史の中でも、己の存在するべきこの地が危機にさらされている時に、その守護者という名誉ある役割を与えられてきた世代は少ない。そして私はかつての都市の守護者の子孫として、その責任から逃げ出すつもりはなく、それは同胞たる諸君らも同じ気持ちである事と信じている。
 私はこの責任ある役割を歓迎し、諸君達の意思も家族として歓迎している。我々の誰かが自分の立場を、他国の者もしくは他の世代の人々と交換することを望んでいるだろうか。誰かが私にその者の名を吹き込もうとも、私は信じたりはしない。信じるわけがない。
 なぜなら、我々は知っているからだ。我々の努力に我々が捧げる信念と献身こそが、我々の掴むべき本来の世界の姿を、この地の真の主である我々を照らしだすものだと知っているからだ。そしてその明かりから発せられる輝きこそが、真に〈約束の地〉の復活を彩る光だと信じているからだ。
 そして今、その光が今、必要とされている。言うまでもなく、かの〈約束の地〉において』



「ちょっと身が入りすぎてるんじゃないかな? 何も知らない奴らには、何を言ってるのかわからないじゃないか」
 トレイルがニヤニヤしながら、傍らの大佐に目をやる。
「良いんだよ、アレで。『彼』は自分の求められている役割通りに、ちゃんとやってくれている」
 「まるでオカルトね」と、誓子が苦笑混じりに呟いた。結局彼女は、誰も座らなかった〈E.A.S.T.s〉達の対面席に腰をおろし、肘掛けに身をもたせかけたくつろぎの姿勢でビデオを眺めていた。
 木伏にはその体勢が、彼女の中の自信の表れにも見える。ミツヤが言ったように、彼女は世界の中心なのかもしれない。この状況下、誰も手が出せないという意味において。
「貴女には理解出来るでしょう。専門家同士の会話です。同士にだけ伝わればよい言葉というもの。今までの言葉はまさにそれです」
 レイムーンがミラーグラスの下の唇を――ビデオの男とそっくりの、力強い動きで囁かせる。
「わからぬ者は、わかる部分だけ拾い上げればよいのです。それが世論といわれるものでしょう? 課程は、それを意図してることが見えるものだけで眺めれば良いのです。結論は世論に預ける。そして大抵はコチラの予想通りになってくれるものです。もちろん、そうなるよう努力もしています」
「意図していること、ね」
「もちろん、酒上博士と我々の描いている予想図が、ピッタリ同じであるのなら素晴らしいのでしょうがね」
「そううまくいかない事ぐらい、私だってわかってるわ。そこに、私の師匠が歯ぎしりしそうな顔で突っ立ってるなら尚更。ねぇ、ギル?」
 ギルは答えなかった。その代わりに、満面を笑みに変えた。
 酒上の言葉を信じるなら、その表情の根源は怒りなのだろう。いつもの嘲笑や見下す笑みではなく、自分の目の前に立ち塞がった困難を正確に予想し、その状況に置かれた自分を笑い、そしてそれを打ち破るべく敵を殲滅する宣言を高らかに告げた殺意の笑み。
 木伏は自然に全身が粟立つのを感じつつ、逃げるどころか腰を抜かすこともできずに立ちつくす。
 だが、酒上誓子は逆に、薄い薄い笑みを唇に貼り付けた。
「怯えてるわよ、新しいお弟子さん。あまり最初から怖いところを見せたら、早々に逃げ出されちゃうんじゃないの?」
「誰が弟子だって? ハッ、馬鹿なことを」
 ギルは横目で木伏の表情を確認し、酒上に向かってその攻撃的すぎる笑みを向けた。全身で彼女をあざ笑うかのように胸を張る。
「私の弟子は後にも先にも、一人もいない。多少の知識を与えたことはあるかもしれんが、私の知識と技術は、永遠に私だけのものだ。誰にも渡さん。もちろん、勝手に私の技術を盗んだ挙句、弟子を名乗って〈アカデミー〉に売り込んだ性悪泥棒猫の一匹二匹はいたかもしれんがな」
 酒上はその笑みを変えず、ギルに向かって頬杖をついて見せる。
「あら、先生。その猫に引っかかれたのが原因で死ぬ人間も、世の中には結構いるんですよ? 傷口からの感染には気をつけて。特に今は〈カタストロフィ〉前夜。貴方がのたうち回る姿なんて想像できないけど、この騒ぎが終わる頃には目にする事ができるのかしら?」
「同じ言葉をそっくり返してやろうか? 今、ここで現実にしてやってもいいぞ?」
「やだわ、ギル。一晩ぐらい昔に返って、夜を楽しんでからにしましょう?」
 ギルは答えずに、ただシゲシゲと――値踏みするように酒上の全身をゆっくり、文字通り爪先から頭のてっぺんまで、じっくりと眺めた。否定とも肯定ともとれるその視線を、酒上は挑発的に受け止め続ける。
 木伏は二人のやりとりを目にする事どころか耳にする事も居たたまれず、モニターの中で続く美しい指導者の――目の前のソファで同じようにこの演説に耳を傾ける男と同じ顔をした彼の――言葉へ、無理矢理意識を向けようとした。



『〈星の民〉の多くの望み、もっとも深い願い、安住の地を得るという願いが実現するという希望に向かい、我々は力を集結するべく努力してきた。人の短き人生においては長くとも、世界の大河と比べれば急速なる変化が、この集結に応じている。それは、我々が生きている間に、かつてだったら何世紀もかかったことだろう進歩をこの目でみることを可能にしたのだ。
 そして宇宙の果てより打ち捨てられた我々は、この地上において次なる地平線を見つけ出す時を得たのである。今、ここに。
 それはこれからの数日、数年、数百年で到達できるものではないかもしれない。呪われた生を与えられたこの私の目が黒い間に、もしくはこの地球上での我々の生きている間でさえなしとげられないかもしれない。
 しかし我々は着手しなければならない。我々の祖先が、我々に示したように、この地上において新たな地平線を見つける努力をしなければならない。我々の活動が、我々の存在が歓迎されるように、我々の平和が永遠のものとなるべく着手しなければならない。
 そして我々にはできるはずだ。大事なその一歩目を踏み出す勇気があるはずだ。
 そう、我々一人一人が英雄として、その手を伸ばす時が来たのだ。成し遂げなければならない。誰もはじめなかったその一歩を』



 ヘンテコな事が始まってやがる。
 弥彦がそんな言葉を耳にしたと思った次の瞬間、彼の耳は風のうなりで一杯になった。足元の浮遊感、そして周りの景色と足元の更に下で待ち受ける地面に気づいて、急いで着地の準備に入る。足裏に地面を感じたと同時に足へかかったショックをそのまま受け流すべく、膝を折って勢いを殺し太股と腰で体重をがっちり受け止める。
「悪ぃ、高さ間違えちまった」
 傍らに何事もなく降り立ったアキオは、弥彦の肩を叩いて謝罪すると、すぐに路上へ唾を吐き捨てた。ビル壁に設置されていた巨大マルチビジョンを親指で指し示す。
「あのムカツク色男が首突っ込んできやがってさ、気が散っちまって」
 言うまでもなく、そこにあったのは銀髪に蒼い軍服の男が、真摯な態度で熱弁をふるっている様だ。彼が何者かわかっていない弥彦には、この演説の主の何がアキオをそれほどまでに動揺させたのかわからなかった。何よりも、彼が一体何を語っているのかも知らなかった。
「ま、あっちはオレのダチに任せておいて。こちらはこちらのお仕事でもしますか」
 おどけた調子で両の手を摺り合わせたアキオは、周囲の状況を確認する弥彦の肩を再度叩いた。
「二時の方向のオッサン一人、五時の方向にガキが二人、八時の方向に一、二……四人、建物の中だ。……二時のオッサンがこっちに気づいた。来るぞ、絶対に手を抜くな」
「〈フリーク〉ですか!?」
「今更何いってんだ、当然だろ」
 既に血まみれとなったワイシャツから、吸い込みきれなかった血液が路上に滴り落ちている。歩みの軌跡をポツポツと赤い点と水っぽい線で繋ぎながら、四十代後半と思われる男性がゆるゆるとこちらへ向かってやってくる。
「〈フリーク〉は、相手が自分に敵意を持ってると察知してからが怖いんだ」
 余裕なのか、それともそういう儀式じみた行動なのか。アキオは新しい煙草を咥えながら弥彦に囁く。
「でも良いトコもある。二重現身《ドッペルゲンガー》より簡単だ、なんせ実体なんだから。〈人格波動〉の塊じゃない分、どこを壊せば停まるのか簡単にわかる。再生力も生物としては異常なスピードだってだけで、二重現身みたいな現象の回復ってわけじゃない。殴れば血もでる、涙もこぼれる――本当に痛がってるかどうかは知らねぇが。なんにせよ、二重現身みたいに、どこまで攻撃すれば決着が着くのかわかりにくいってことはない」
「つまり狙うのは脳幹だって事ですね?」
 今まで何度か、〈フィストドライブ〉のテストを兼ねた実戦で〈フリーク〉と戦った事のある弥彦だ。その程度の基礎知識なら、知識としても実感としても理解している。
「そんだけわかってりゃ十分だ」
 パチンとアキオが指を鳴らし、煙草へ魔術の火を着けたと同時だった――それとも、その音に触発されたのか――動くことも辛そうににじり寄ってきていた〈フリーク〉が突然、ガバリと四つん這いになったかと思うと、弥彦の目を潜るかのように足元へ飛びかかった。咄嗟に飛びかかられた左足を蹴り上げる。
 仰け反った相手と、一瞬、目が合った。
 まるでカメラのレンズへ視線を送った時のように、相手からは何の反応もなかった。痛みすらその目には宿っていなかった。
 懲りずに足元へ飛びかかってきた〈フリーク〉を、今度は警棒を抜き放ちざま叩き落とす。足元へ叩きつけられ四肢をビタリと地面に貼り付けられた〈フリーク〉の後頭部へ、〈特務〉の大型拳銃を押し当てる。
 指先に力を込めようとしたその時、ほんの数瞬前に目を合わせた顔が浮かんだ。
 モノとして自分へ向けられた視線。動きには怒りの気配がある。しかし意思らしい意思の見られない、その白く強ばった表情。
 この中年の男性の、今日この日までの、人間らしい顔とはどんなものだったのだろう?
 この顔が、この歳まで成長してきた人間の最後の顔。喜怒哀楽を幾度となく浮かべた肉、人生を刻み込んできたはずの皮。その果てがこの仮面のような顔だというのか。
 弥彦達が到着する前、路上で自らの幻影に襲われた時のその顔は、どれほどの苦痛と、救済を求めていただろう。
 弥彦は自分の技術もさることながら、皆の助けもあって生き延びた。そして今や能力者でもあるはずだ。木伏やギル、三条の助けがほんの少しでも遅れていれば、とっくに〈フリーク〉となって処分されていたに違いない。
 助けの間に合った幸運と、間に合わなかった目の前の男の不運。一体何が、二人の運命を分けてしまっているのだろう。
 そして浮かんだ。この一連の出来事の、最初のきっかけとなった事件を。細い路地で、皮だけになって壁に叩きつけられていた女性の人生の事を。考える間も与えられずに死んでいった人間の事を。
「何ぼーっとしてんだッ! この、クソ野郎ッ!」
 アキオの、普段からは想像できないほど激しい怒声がなければ、いつまでも物思いに捕らわれ続け、そのままの体勢で動けずにいたかも知れない。
 我に返った途端、〈フリーク〉の手足がモゾモゾッと動き出したことに気づき、恐怖が指先を押し動かす。現実から意識が乖離していたのはほんの刹那のはずだが、自己の想いに浸りきっていた意識は現実的な刺激に対し過剰に反応した。反射的に引き金が絞られる。
 大きさと威力に見合った重い反動を手に与え、そして地面に頭部を破壊した印の大きく真っ赤な模様を描き、大型拳銃は弥彦の指先に応えた。街の中の硬い路上に、頭部を無くした年齢のわかりにくい死体が一つ転がる。表情を無くした男は、その顔かたちまでも無くしてしまったのだ。
 アキオは再び地面に唾を吐き、束の間、弥彦を睨みつけた。明らかに今のためらいを咎めている。
 この〈西方協会〉の男も、平然と戦闘に参加し、死体を眺めている姿を見ると、血や暴力と全く無縁な部類の人間ではなかったようだ。それだけに、弥彦の戸惑いがどれだけの過ちであるかを知っているはずだ。
 厳しい顔のまま紫煙をはき出すと、煙草を抓んだまま、首筋を撫でるような仕草をした。何かを考えているようだったが、それもほんの数秒で終わる。
 居心地悪い思いをしながら彼の行動を眺めていた弥彦に向かって歩き出す。
「復帰したばかりだ、休みボケってことで、今回だけは大目に見てやる。でも、てめぇは仮にも軍人だろうが。柚実ちゃんみてぇな素人じゃねぇんだ、次にやったらタダじゃおかねぇ。覚悟しておけ」
 すれ違いざま、鳩尾にむかってやや強めのパンチ。
「ま、オレがお仕置きする前に、〈フリーク〉にペシャンコにされちまってるかもしれねぇがな」
 弥彦の脳裏に再び、あの壁に貼り付けられた女の死体が浮かんだ。
 自分もああなるかも知れないと――確かにその可能性を考えた事もあったはずだが、その想像が現実になっていたかもしれない瞬間を、ほんの少し前に体験していたのだ。完全に自分のミスとして。
 愕然とする弥彦の耳に、人々の避難のざわめきが反響し続けるビルの谷間で、唯一冷静に囁く演説が差し込んでくる。



『人は責任をもっているときのみ、責任をもって行動することが望める。我々もその責任を担う用意がある。
 我らが我らの信念で行動するように、同志の為に決断するように、無力で無記憶なるこの地の人々、個々の人を励まそうではないか。より多くの場所で大いなる責任を分担しようではないか。
 我々が直面しているこの危機的状況において、我々〈星の民〉《エーテリアン》一人一人は、どうやってこの国、この政府の理解を得るのかではなく、自分が何をできるかを示そうではないか』



 聞くともなしにその言葉を耳にした弥彦は、大型拳銃を腰に戻しながら思い出す。
 自分が何をできるか――そう、いつかギルが語った言葉を思い出す。
 軍医は弥彦に向かって言ったのだ。『人を守る為に人を殺せ』と。『人を守れ』と。そして自分は考えたはずだ。自分の力で、敵をどこまで救えるのかを考えることができるのではないかと。
 では〈フリーク〉を救う方法を、できるかぎり救う方法を、弥彦自身は持っていないのか?
 弥彦は自らの拳に目を落とす。〈フリーク〉を救う方法を、自分は持っているのか?
 しかしそれは、戦闘中に考えてはならない問いかけだ。まだ周囲に沢山〈フリーク〉がいる事実を、つい先にアキオと確認したばかりなのだから。
 だけど、とも弥彦は、自分がたった今殺した男の死体を見下ろして思う。
 こんな事はおかしい。こんな終わり方は悲しすぎる。
 〈フィストドライブ〉であろうと〈特務〉の拳銃であろうと、たとえ頭部を破壊するのが〈フリーク〉になってしまった人間の人生を終わらせる唯一の方法だったとしても――そう教えられ、そう実感していても、それでもこれはおかしいと弥彦は思う。
 早く答えを見つけださなくては――自分を納得させる方法を。
 こんな事を繰り返せば自分がどうなってしまうのかぐらい、直感でわかる。
「弥彦、よく聞けよ」
 アキオはせわしなく煙草をふかせた。呼びかける〈西方協会〉の男の肩越しに、フラフラ揺れながら歩く二人組が見えた。〈フリーク〉となった若い男女だ。戦闘体勢を取るにはまだ距離があるが、次の戦いは彼らとのものになるだろう。
 彼らの動向を注意しつつ「はい、なんですか」と――本来なら返事をせずとも良い相手であるアキオに対し、敬意を持って返答する弥彦だ。
 アキオが弥彦以上に場慣れしている事は、今までの経緯だけで十分察することができる。〈フリーク〉を倒す意思も明確だ。この場の指揮を彼に任せる事に、弥彦はなんの疑いも抱かなかった。
「オレはこれから、ここら一帯を魔術で監視する。連鎖を広げねぇように、ここいら周辺二百メートルに境界を設置する」
「はい」
 アキオの言葉の端々が鋭くなっていくのを感じながら、弥彦は彼の声を自分の脳裏に刻みつけようと耳に神経を集中させる。
「境界までふらつきやがった〈フリーク〉はここに転送する。相手してくれ。詳しく説明してるヒマはねぇから言わねぇが、あんまり魔術を使ってるとイロイロとマズイんだわ。これから境界を設置して、お前が一度に相手できる人数を調整しながらこっちに運ぶだけで、オレは手一杯になっちまう。何もできねぇ」
 アキオも弥彦の視線に気づいて振り返り、二人の〈フリーク〉が近づいてくるのを目にしながら、早口で説明する。
「だから、そこから先はお前には護衛してもらうようになっちまうが……〈西方協会〉の連中もこちらにまわすよう、手配している。ほんの数分だけ踏ん張れ、やれるな?」
 大丈夫かとは聞かなかった。先に我を忘れるという大失態を犯したにもかかわらず。
 アキオは戦闘者として弥彦を信頼したのだ。自分の命を丸ごと弥彦に預けてきたのはその表れだ。そしてそれは、弥彦が自らの使命をやり遂げるだけの力があると見込んでの事でもある。
 アキオは、弥彦が自分のドッペルゲンガーと戦っている姿を見ていた。その次がこの戦闘になる。逆に言えば、弥彦の力を見たのはそれらの二回だけでしかないとも言える。
 それでも自分の命を預けるというのだ。戦場において、これ以上の信頼の形があるだろうか?
 それを言外に感じ取った弥彦は、一際大きく頷く。
「はい、任せてください」
 その顔を一瞥したアキオは、ふっと唇の端を緩めた。ロイド眼鏡の位置をなおしながら
「なんか、変に硬いんだよなぁ、お前。『もっと気楽にやろうぜ』って言っただろ? オレまで調子狂っちまう」
「そ、それは、すみませんでした。以後は気をつけます」
「それが硬いってんだろ。勘弁してくれよ、まったく」
 笑いを吹き出すと、一際強く煙草を吸い込む。勢いよく吐き出した紫煙と共にでた声は、再び抜き身の真剣のような、鋭さをもって弥彦に放たれた。
「ホント、悪ぃな。ウチの連中が追いつくか、和政が〈フィストドライブ〉を持ってくるまでの辛抱だ。頼んだぜ」
 言うが早いか、アキオは煙草を投げ捨てた。目を閉じると、テンポ良く、リズミカルに、高らかに指を鳴らしだす。
 甲高い音が一つ鳴り響く度、その体の周囲の中空に次々と薄く浮かび上がる光の塊。昼行灯という言葉があるが、行灯どころではない、どのような原理か知らないが、しっかりと視認できる光だ。円盤状であったり長方形のパネル型であったり、様々な形状と紋様を取るそれらは、幾何学的な動きでアキオを取り囲み動き続ける。
 どの形一つとっても、弥彦の見たことのないパターン。
 これが、〈西方協会〉である魔術師の、彼らならではの技術なのだろう。
 個々人の意思で発揮される能力者の特殊能力では、技術体系などできようもない。だが、この魔術の姿を見る限り、この術は歴史の流れの中から生み出された汎用的な技術なのであろう。それが直感的に理解できる、雑然としながらもシンプルで筋道のたった動きがそこにあった。
 これらの魔法陣が、アキオのいう境界を設置する作業に必要な準備だったのだろう。指を鳴らし終えたアキオは、鍵盤に指を置くように、中空で停まった二つの光盤に指先をおき、直立して動かなくなる。
 アキオが完全に作業へ集中したのを確認し、弥彦は周りを見渡す。先に見えていた二十歳前後の男女の〈フリーク〉は、顔立ちがはっきりわかるほど近づきつつあった。生前もそうであったのだろうか、仲良く並んで、こちらへフラフラとやって来る。
 弥彦が戦闘態勢をとっていないこともあってか、敵意を察知していないのだろう。立ち尽くすアキオや、彼と男女の間に立ちふさがった弥彦にも気づいていない。いや、気づくという意思も、彼らには既にないのだろう。
 弥彦はまだ頭上から降り続く演説の言葉をうわの空で耳にしながら、年若いカップルの、男の左手が無くなっていることと、女の右の足首が無くなっていて歩きにくそうな事を――おそらく、二重現身が喰らった時にその部分が足りなかったのだろう。どこかに転がってしまって、食べられなかった部位があったのだ。その部位は今、どこにあるのだろう――そんな事を、ぼんやりと気にした。



『それ故に、敵であろうが味方であろうが、全ての国に知らせるのだ。
 我々はこの土地が生きのび勝利をおさめるためになら、どんな対価も支払い、どんな重荷にも耐え、どんな困難にも立ち向かい、味方を支持し、哀れなる犠牲者と驚異的な化物には全力をもって対抗するということをだ。
 そうだ、我々は対価をを支払わねばならない、同志よ。
 我々は、互いに争いばらばらになって、どうやって強大で無尽蔵な敵に立ち向かえばいいのか。
 対決の時は終わったのだ』




 美雪の肩を抱いてやりながら、柚実は一裕が無線でやりとりする様を後部座席から眺めていた。
 一裕は鮮やかにハンドルを切りつ、無線に暗号じみた言葉を発していた。極わずかな単語に――例えば「対〈フリーク〉用試作機使用」や、車両番号を指す略名に聞き覚えがあるだけで、一体どこからどんな話が展開されたのかすら理解していなかった。それどころか、彼がどこで無線を終わらせる言葉を発したのかすら、わからなかった。それは無知故の無理解だったのか、混乱故の無記憶なのか。それすら曖昧な柚実だった。
「おい、柚実」
 突然に名を呼ばれ――しかも彼が柚実を名指しで呼んだのは初めてなのだ――柚実は返事も出来ずに、一瞬だけ振り返る一裕の大きな目に自分の視線を合わせる事で精一杯だった。
「俺は軍の学校しか知らないから、お前達がどんな教育をされてるのか知らない。教えろ」
「何を?」
「〈E.A.S.T.s〉の事を、どれだけ知ってる?」
「テロリストの?」
「そうだ」
 柚実は自分の学校生活を思い出そうとした。ほんの数十日しかたっていないはずなのに、遠い昔のことのように思えた。
 〈E.A.S.T.s〉……学校ではあまり話題にならない単語だ。大陸の歴史の事業で聞いたことがあるぐらい。たまに犠牲者が報道され、そして極めて稀だが、クラスメイトの親族がその活動に巻き込まれて亡くなったと聞くぐらい。テレビの報道を、養父母達と夕の食卓を囲みながら眺めていた事の方が圧倒的に多い。
 父方の親族である養父母は、やはり親戚が彼らのテロに巻き込まれて死んだことがあると言っていた。そのせいだろう、時折、養母はこらえきれずに涙を流すことがあった。
 だが、やはりそれぐらいの印象でしかない。
 特に隠す必要もなかったが故に、柚実は途切れ途切れながらそれらの事を一裕に語った。語りながらふと、そういったテロリストととの戦いを一裕達が繰り広げていたのだと思い当たる。
 柚実たちが意識していなかったから知らなかっただけで、同年代の彼は〈E.A.S.T.s〉との戦いを想定した訓練をも長年受けてきているのだ。
 一裕たちが命がけで戦っている相手を、柚実達はほとんど知らない。
 いや、知らないほどに平和であるのは、一裕たちが戦っているからなのではないか。
 それに思い当たった柚実は、自分の話が一裕をどれだけ傷つけるかと思い、言葉を濁した。こんなにも〈軍部〉の、一裕の努力を無視してのうのうと暮らしてきた柚実たちなのだ。一裕が突然やってきた「普通の人間」である能力者を嫌うのも仕方がないのだと納得せざるを得なかった。
 一裕は黙って柚実の話を聞いていた。柚実の話がうやむやのウチに終わってしまってもしばらく沈黙。
 柚実の席からでは斜めからしか見えない一裕の表情は、どのようなものであるのか。話を続けて良いものかすら判断できない。
「オレにはわからんな」
 一裕が突然、独り言のように口を開いた。
「奴らを前に、何をするかわからん」
 その時の柚実は、レザミオンの演説の事を当然知らなかった。無線のやりとりでその話題が出たのだろうが、内容を聞き取れなかった彼女には伝わっていなかったのだ。だから彼が何を言っているのかもよくわからなかった。もちろん、他の意図があっての発言だったのかも知れないが。
 一裕の呟きは続く。
「仕事がやりやすくなったのは確かだが、別の仕事が増えたことも確かだろうしな……良くも悪くも、か」
 不意に、自分たちの車両の視界が開けたような気がした。
 柚実はフロントガラスの向こう側に、全く動いている車両がない事を見て取る。二車線の上下、つまり四車両の通路を車が走り抜けないだけで、こんなにも広く見えるものかと驚いた。各所で車を乗り捨てていったのだろう車両が立ち往生しているが、動かない車というものがこれほどまでに風景と一体化してしまうものとは。
 その景色の中でも動くものはある。忙しく走り回る人々――逃げているのか戦っているのか定かではないが、ごく少数の人々であることは確かだ――が一人二人と通りを横切り、車両を更に奥へと勧めようとする一裕の前へ進んでゆく。
 不意に、その一人が振り返った。
 次の瞬間、無言で一裕が運転席の窓ガラスから腕を突き出す。あまりの素早さに、取り回しも不自由そうな〈特務〉の大型拳銃がどこから彼の手に現れたのかわからなかった柚実だ。波動認識錠の外れる赤いランプも灯るかと灯らまいかの瞬間、ためらいもなく発砲。柚実は反動で跳ね上がる彼の腕と弾丸の行方よりも、轟音とその音に反応して大きく震える美雪の体を抱きしめる事で精一杯になる。
 だからその時、柚実は一裕の撃った〈フリーク〉が、頬から上の部分を遠くに跳ばされた事も知らなかったし、その下の胸が喉元まで大きく砕かれた姿も見ずに済んだ。ましてや、その直後に車両が大きく縦に揺れた原因が、転がった体に乗り上げたが為とは思いもよらない。
「行動を確認するぞ」
 平然とした顔つきのまま死体を轢き潰した一裕は、大型拳銃をしまうことなく、片手で運転しつつ怒鳴る。
「車を停めたら、俺は外に出る。貴様はその女を守れ。イメージで壁を作れるんだったな? 〈フリーク〉の攻撃も大丈夫なのか?」
「う、うん。そう。止めることしかできないけど、多分大丈夫。二重現身《ドッペルゲンガー》は大丈夫だった」
 柚実も一裕に負けじと怒鳴り返すが、うまく言葉が浮かばない。焦りばかりが脳裏を焼いている。
「なら、車両を守るつもりでやれ」
 急ブレーキと共に車両が九十度回転。横付けした車両の前には、乗り捨てられた民間人の車が並び、これ以上の進行を不可能にしてしまっていた。
「装甲はレベル伍にする、短時間しか持たないが、〈フリーク〉でも簡単には破壊できなくなるはずだ。それに三分で〈本庁〉から〈フィストドライブ〉を運んでくる連中が合流する。〈フィストドライブ〉を使えるのは弥彦だけだが、この辺りの〈フリーク〉を牽制する囮にはなるはずだ。弥彦もここに誘導する。だから、それまではどんな状況になっても絶対に外に出るな。その女も出すな。腕の一本や二本ちぎれても生きていけるが、胴体を裂かれちゃおしまいだ。わかったな」
「相田さんは?」
 その問いに、一裕は答えてはくれなかった。代わりにマニュアルを取り出し、サイドシートに置き直おす。
「まだスイッチの位置を覚えていないのなら、今度こそ覚えろ。こんな時の為に頭に叩き込んでおくんだ」
「相田さんは、どうするんですか?」
 重ねての問いかけも、一裕は顔色一つ変えずに無視した。
「オレが出て行ったら、装甲変更スイッチを入れろ、レベル伍だ。スイッチが入れば、起動時間内は内側からでも出られなくなる。その分だけ安全だ。……反論なんかするなよ、オレは今お前より階級が上なんだからな。言われたとおりにやれ」
 言葉と共に、薄暗くなった車内の一画に眩い光が差し込んだ。運転席のドアが開けられたのだ。そして、極めて普通に、急いでいる以外には特に変わった様子もなく、車両の外へ飛び出して行く一裕の姿。
 ドアを後ろ手に閉めながら
「かかって来いよ、化物ども」
 抑揚無く張り上げられた言葉だったが、〈フリーク〉達はその奥に隠された殺意を感じ取ったのだろうか。それとも、そんな事とは関係なく、一裕の容赦ない特殊弾丸〈カナジ〉による攻撃が始まったのだろうか。
 立て続けに木霊し、一方的に鳴りやまない銃声が徐々に、車両から離れて行く。一裕が〈フリーク〉を追って移動しているのだろう。
 柚実は慌てて、しがみつく美雪の体ごとフロントシートに身を乗り出す。レベル伍のスイッチに視点を落とす。
 ほんの数十分前に、偶然ながら一裕に教えられた、そして罵倒されたスイッチ。その後、惨めな気分の中でマニュアルを読んだ中で脳裏に焼き付けた、忘れようのないスイッチの一つだ。サイドシートのマニュアルを拾い上げるも、中をのぞいて確認する代わりに、柚実は自らの拳を、前面に並んだパネルの一画に叩きつける。
 自信ではない。混乱でもない。その行動に関してのみ酷く冷静な気持ちで、確信を持ってスイッチを入れた。「これぐらいなら操作する機会があるかもしれない」と言っていた一裕のレクチャーに対する答えとして。
 短いブザーと共に点灯する非常用のショックアンカーのスイッチ。車体が大きく揺れ、フロントガラスには分厚い防弾ガラスが重なる。内側からでは見えぬ車両の表面にも、硬く重い板が鎧のごとく重ねられたのだろう。見えもしないのに息苦しく感じるのは、その機能によって密閉状態に陥ったからだ。数秒後に二酸化炭素濃度を検出したセンサーによって酸素が補充されてくるが、その量もギリギリに調整されているのか、一向に消える気配のない重苦しさ。
 〈軍部〉の特殊車両が常日頃より装甲を重ねておかないのは、このような密閉状態での活動時に酸素などの準備とコストが罹ってしまうからでもある。あくまでこの車両は、戦闘用でもありながら威嚇の意味合いも強く持ち、通常業務の範囲内で使われる移動手段であることが前提の車両なのである。毎回酸素ボンベを使用していては、採算が合わない。それ故の、段階を踏んでの強化なのである。
 もちろん、それらの事情など柚実の知るところではなかったが、これらの手順が柚実に「軍人として行動を起こしている」という実感を湧かせた最初の行動であったのは確かだ。
 重装化の手順の中、轟音が柚実と美雪の体を襲った。外部からの鋼のかち合う耳障りな音が、内部の二人を威嚇するように揺さぶる。下部シャフトを覆う為だろうか、それともアンカーが作動してアスファルトに食い込んだ時だろうか、脳髄まで突き抜けるような衝撃に、束の間シートから飛び上がる。マニュアルを放り出し、倒れぬよう後部シートに慌てて手を伸ばす柚実の視界に、重ねられたガラスで濁る外界が写った。
 柚実はあらためて座席の窓から外に目を走らせ、近づく〈フリーク〉がいないかを警戒。急いで、何度もアキオと訓練したように、外の空間に対して銀色の壁を設置するイメージを浮かべる。頼りなく、まるでメガネの表面に付いた汚れのように、空気中に不自然に浮かび上がる銀色のシミ。重ねられたガラスの向こうにあるそれは、いつもにも増して頼りなく、そしてみすぼらしく見える。
 柚実は先に答えた自身の解答を疑った。本当にこんなもので、〈フリーク〉の攻撃を受け止めることができるのか?
 美雪の肩を抱いた不自由な体勢で、柚実は〈特務〉制服の胸ポケットを探った。硬い板の感触。美雪に余計な心配を与えぬよう、ソロソロと取り出す。
 ギルが柚実に渡していた、銀色のカードがそこにあった。鏡のようなその表面に、柚実は自分の顔を見る。唇の端を戸惑いに引きつらせ、目を泳がせている姿だ。
――これなら大丈夫。
 自分の能力で〈フリーク〉の拳を受け止めたことはない。だが、このカードでドッペルゲンガーの拳を止めたことはある。それだけが柚実の支えだ。自分の力は化物に有効だと。何もできない自分だが、身を守る事はできるのだという、唯一の自信。
 柚実はその、たった一枚の銀のカードを、外に浮かべた銀色のシミ――『銀色の壁』とアキオは呼んでいた――同様、目の前に浮かび上がる様をイメージ。カードは当然のように違和感なく手の上を滑り出し、空中に躍り出るとピタリと停まった。ちょうど『銀色の壁』とガラスを挟んで対峙するかのように。
 弥彦の二重現身に対して使用した時以来の起動だ。ギルは何も言わなかったし、〈フィストドライブ〉とは違って、カードを調整した事もなかったから、カード側に柚実を認識する機能が当初から備わっていたのかも知れない。あまりにあっけなく手軽に起動できた事に、柚実自身が驚いていた。
 そして、ほのかに首をもたげる自信。
 今までとは違った自分。能力者として、人とは違うことができるという自信。
 一裕は言っていたはずだ。『〈特務〉ならできる』と。この、数日前までは自分も同じだったはずの、無知で無力な後輩を、今は怯えて俯くことしかできない後輩を、降って湧いた厄災から守ってやることができるはずだと。弥彦が意識を取り戻さぬ間に、アキオと一緒に訓練してきた事が試されようとしているのだと。
 だがその気持ちに反して、柚実の記憶の中のギルが囁いた。
 初めて顔を合わせた時――そう、このカードを受け取った時の笑み――あの意味深で不気味な、人を見下した笑みで。
 このままだと死ぬぞ、と。
 不意に美雪が悲鳴を上げた。酷く大きなため息のように、長く、一音を発するだけの悲鳴。緊張に耐えられなくなったのだろう。暴れないだけマシかもしれない。
 柚実は急いで彼女の頭を自分の胸元に押しつけてその声の響きを殺しながら、ジワリと、狼狽するだけの後輩に対する苛立ちを感じた。
 その感覚はすぐに、自分が一裕にどう思われているかを思い至らせもしたのだが、めげる時間の余裕など、その時の柚実には残されてなどいなかった。



『我々は次なる地平を探す時を迎えたのだ。
 故に、人々の偏見と、この地の災厄と、永遠となるべき平和の構築とに、我々はついぞ支払ったことのない対価を支払わねばならないのである。
 それはこの場という交渉の席で、互いの手を取り合うという価値ある行動である。
 つまり、我々は真の栄光を掴むために、この地に住む人々と手を結ばねばならないということだ。
 我々の同志を奪い、傷つけ、憎しみを抱くも当然と思う者もいるだろう。我らを恐れ、隠れ、逃げ出す無知なる人々もいよう。
 だが決断の時は今を除いて他はない。一歩を踏み出す時は今しかない。
 私は〈E.A.S.T.s〉の代表として、苦渋かつ勇気を持ってこの対価を支払う決意を固めている。
 もう一度だけ告げよう。私の言葉を信じる者、信じない者、そして私の命を狙う者、守る者、全ての人々にもう一度叫ぼう。

 我々は真の栄光を掴むために、この地に住む人々と手を結ばねばならないッ!

 私にはその覚悟があり、我らが同志にも勇気ある行動を期待する。
 歴史上のどの瞬間もかけがえがなく、同じ時は二度とはやってこない。しかし絶対的な判断を迫られる時もあり、そのような時によって、何十年、何世紀もの我々の針路が決まってしまう。
 今がまさに、その時だ。勇気を必要とする栄光の一瞬がそこに迫っている。
 高貴なる英雄の血にふさわしい決断と行動を見せつける時が、すぐそこに来ているのだ』



 弥彦は飛びかかってきた手首のない若者の腕をかいくぐり、その顔面に手を伸ばす。
 大きな彼の手は、若者の顔面を覆うに十分であり、その握力も腕力も、〈フィストドライブ〉という化物じみた兵器を操るにふさわしい力を有していた。腕を突き出した勢いのまま若者の体を押し倒し、その身長の高さから受け身を取らせる間もなく地面へ後頭部を叩きつける。
 人体とは思いたくない嫌な手応えがダイレクトに皮膚へ伝わり、弥彦に行動と攻撃の終了を告げた。
 振り返りざま、まだ攻撃態勢へと入っていなかった足首のない少女の両ふくらはぎを両手でそれぞれ掴み、そのまま上へ振り上げる。重くないと言っては嘘だが、勢いと、虚を突かれた〈フリーク〉が一度地面を蹴って飛び下がろうとしていた事が弥彦にとって優位に働いた。両手をバタバタと動かし、どうしようかと迷っている風な動きをとる〈フリーク〉を、そのまま頭部から地面へと叩きつける。血しぶきが上がり、両手がバタリと大きく開いて落ちた。
 安堵の息をつくのも束の間。
 上空で金属的な音が響き渡った。急いで天を仰ぐ弥彦。視界を覆いながら落下してくる人体に、弥彦は急いで身をかがめ――右足を〈フリーク〉に向かって突き上げる。軍靴の底が削り取る肉と、押し潰した骨の音。その衝撃。両手をついて地面に踏みとどまる弥彦とは正反対に、もう一度宙を飛んで路上に転がる、デパートの店員らしき女性の体。
 弥彦は急いで身を起こし、警棒を抜き取る。もがく女性の足を叩き折り、その柄で後頭部を殴りつけた。陥没する後頭部と、顔面から吹き出す血飛沫。そして彼女の動きも止まる。
 弥彦はアキオの言葉と自らの行動を比較する。
――あと……三人の〈フリーク〉がビルの中にいる。
 アキオの立ち位置を確認しながら、弥彦は周りを見渡す。魔術師が察知した〈フリーク〉の数だが、その後に増えた可能性も無きにしもあらず。
 耳を澄ませば、どこからか悲鳴や銃声が聞こえてくる。アキオの言っていた〈西方協会〉の連中だろうか。それとも、事態を把握した〈特務〉の拳銃か。
 突然起った砂利の鳴る音へ振り返ると、猛烈な勢いで走り寄ってくる〈フリーク〉の姿があった。浮浪者風の〈フリーク〉は、真っ黒に汚れた顔を呆けたように前面に押し出し、前進することしか知らぬかのように、そして驚くべきスピードで駆けてくる。しかし、直進してくる敵を避ければ、アキオにぶつかる。その後がどうなるのか、想像がつかない。
 弥彦は手の中に残っていた警棒を握りなおし、しっかりと両手で支えた。白兵戦専用の兵士とはいえ、こんな風に自暴自棄な行動に対処する技を伝授されているわけではない。ましてや相手が人ではないのなら尚更だ。自分の中にある知識と経験を最大限に生かすしかない。
 右足と警棒の先端を突き出し、その最長部を瞬時に把握した弥彦は、一度体勢を元に戻すと、相手が自分の間合いに入る瞬間を待ち構える。
 ――と。
 左の視界の隅から不意に飛び掛ってくる黒い影。まだ幼げな少女が、白いレースの覗く黒いドレスの裾を翻し、いつのまに上ったのか電柱の上から弥彦に向かって蹴りつけてきたのだ。
 本能的に危機を察した弥彦の体は、自分でも思いがけない行動をとる。
 飛び掛ってきた少女の体を、自らの体を横に移動し開き、攻撃をやり過ごしたと同時に空中の胴体を横抱きに抱え込む。そして、正面から飛び掛ってきていた浮浪者の体に向かって、少女の体を投げつけたのだ。
 ぶつかり合い、もつれ合い、そしてそれぞれあらぬ方へ跳ね飛び倒れ込む、黒い浮浪者と白いレースの少女。
 弥彦は警棒を持ち替えると、大型拳銃を照準。波動認識錠の外れるランプを確認、自らの標的の行動を確認、起き上がった少女の即頭部を狙って立て続けに引き金を弾く。和政ほど正確な射撃の腕があるわけではない。二発目まではずした弥彦だったが、三発目になんとか頭部の一部を破壊する事に成功する。
 着弾だけを確認し、倒れ込む少女から浮浪者に照準を合わせる。既に起き上がっていた浮浪者の〈フリーク〉は、再び、先と同じように弥彦へむかって突進を開始する。
 何が彼をそんな行動に駆り立てているのかわからない。わからないだけに、迎え撃つ方としては恐ろしい光景でもあり、攻撃でもある。弥彦は左手の警棒の方を足元に投げ捨てた。拳銃を空いた左手に持ち替える。アキオのことも考え、そして確実に仕留める為に、正面から迎え撃つ。確実に仕留めるということは、利き腕である右手で取り押さえ、頭部を砕くのが一番だ。先に手首のない若者の〈フリーク〉を倒した時のように、顔面をキャッチしようと右腕を伸ばした。触れた手の表面は、浮浪者の汚れた顔とその油でぬめり、滑り、弥彦の握力が生かされる間もなくすり抜けそうになる。
 弥彦は即座に親指を左目に突き立て、離れていこうとする顔を無理矢理掴み込んだ。指先に感じる生物の体液の、言いようのない不快感。しかしそれを不快に感じ取る神経が作動する前に、弥彦は呆ける浮浪者の口を、左手で握ったままだった大型拳銃の先端でこじ開ける。歯を削り、肉を叩く感触もつかの間のこと。弥彦は左手による不完全な姿勢のまま、引き金をひいた。叩き込まれた銃弾の衝撃は、脳の欠片を飛ばしながら弥彦の視界の前方へと抜けてゆく。
 〈フィストドライブ〉のテストを兼ねて〈フリーク〉と対峙した事のある弥彦でも、これほどの至近距離で〈フリーク〉と敵対したのは初めてだ。緊張で強張った腕を振り、浮浪者の口から拳銃を抜き取ろうとする弥彦。〈フリーク〉ではなく完全なる死体となった浮浪者の体は、自重を支える力も失い、弥彦の左手に重くぶら下がる。それを無理矢理引き抜き、息をつく。
 唐突に、バシャンと水音があがった。先に倒したはずの少女の〈フリーク〉の、顔の半分が吹き飛んで弥彦の足元まで飛んできたのだ。
 振り返り見ると、弥彦の銃弾で一部が損傷していたものの、肝心な脳幹部分までは攻撃が達していなかったらしい。半ば身を起こしていた幼さを残す身体が、再び死体となって音を立てて倒れ込む。
「弥彦・エンヤさんですね!」
 ビルの隙間、向こう側の路地からバラバラとかけてくる男達の姿がある。先頭に立って手招きする部隊指揮者らしき男だけが、黒いスーツ姿――アキオの着ているような特殊なデザインではない――であり、後を付いてくる人々は服装も性別も年齢も様々な一般の人々。
「〈西方協会〉所属のデルタ小隊とシエラ小隊です、アキオ様の援護に来ました!」
 その言葉に、ようやく安堵の息をつく弥彦。精一杯の強がりで笑ってみせる。引きつっていた声を搾り出す。
「思ってたより早くて、助かったよ」
 軍隊の心得があるのだろうか。黒スーツの男は敬礼し、シエラ小隊の小隊長であるルカだと名乗った。混血らしく、顔立ちがはっきりしているものの、東方的な輪郭や目の形をしている。弥彦より四、五歳ほど年上だろう。言葉は比較的丁寧だが、性格の粗暴さがいかめしい顔の端々ににじみ出ていた。
 作業中の姿勢のまま動かないアキオが無傷である事を確認し、そして周りに散らばる〈フリーク〉だった死体を見渡し、最後に返り血も受けた弥彦の大きな体を、改めて見直す。
「能力者じゃない〈特務〉だとアキオ様から連絡を受けていたので心配していたんですが……見事なモンですね」
「とんでもない」
 本心からの思いで、弥彦は地面に目を落とした。
「自分はまだまだ、未熟者です」
 浮浪者の体液と顔の油のこびりつく手を、無意識のうちに自分の制服のズボンにこすりつけながら、弥彦は自らが死体に返した〈フリーク〉の顔を忘れるべく、ため息をついた。
 忘れなければ、この先、神経が持たない。
 だがその前に、この近くには最低でも一体の〈フリーク〉が潜んでいるはずだ。それに、アキオが順番に敵を転送すると言っていたはずだ。これからどんどんやって来ると思っていてもおかしくはない。
 まだ戦闘が終わったわけではないということ――その事だけは、忘れてはならないのだ。



『私は、全ての人々が我々の見解に賛同してくれるとは期待してはいない。
 ただ我々は、この国の政府が、我々の行動の中に真の愛国心を見出してくれることを強く望んでいる。
 我々の愛国心とはこの国の政治、政府への忠誠ではないが、もっと大きなもの、この土地の存在に対する忠誠であり、この土地を失わんとする気持ちは政府諸氏の気持ちと同じものであると確信している。

 共にこの地に残り、この地を守ると決めた人々よ。
 政府の一部としてこの地に残ると決めた普通の者も居よう、忌まわしき世界崩壊の記憶を持つ〈星の民〉も居よう。
 どうか私の呼びかけに応じて欲しい。私の差し出す手を取って欲しい。
 そして我々が引いた新たなスタートラインから共に前進しようではないか。
 これほど長いあいだ我々を分断してきた敵意の壁をうちこわし、その場所に共闘の橋をかけようではないか。
 そうすれば、信念の表現における大きな違いはあれども、この地を愛する人々はみな同志と呼び合うことができるだろう。
 そしてその絆は、この災厄の先においても、我々相互の理解において大きな手がかりとなるに違いない』



 〈E.A.S.T.s〉の宣言に、木伏は愕然としていた。
 彼らの宣言は、現政府にテロリストが協力することを表明しているものだ。敵対組織が未曾有の危機に対して共闘する――大義名分は確かにある。しかし、中身がそれについていけるものだろうか?
「レイムーンは本気だな」
 ギルが酒上誓子から視線をゆっくりと美男子へ移動させながら、苦笑気味に呟いた。
「同じ人間のはずなのに随分違うもんだ。奴に何を吹き込んだ、レザミオン?」
 銀髪の男は自身の名称に対し――トレイルの時には咎めたはずだが、ギルに対してはわずかに肩をすくめるに留まった。彼もギルの性格を良く知っているようだ。『現代の錬金術師』が他人の命令など一切受け付けないということを。
「特に指示した覚えはありませんよ。影武者ゴッコの延長ぐらいで。ああいう手合いは、レールの上で少し走らせた後、背中押すだけで勝手に動いてくれるもんですから」
 だろうなと、ギルは頷いた。軍医は軍医なりに、この状況を把握したのだろう。口調から察するに、軍医はモニターの中の男と銀髪の男の関係を、昔から良く知っているようでもある。
「〈六人議会〉の根回しは、過半数ギリギリだな。コマツ、ダイム、クザは良いとして、キザキが問題か」
「お見事。話が早い」
 〈E.A.S.T.s〉と〈六人議会〉の関係はしっかり掴んでいたということらしい。暇つぶしにやっているハッキングの成果だろうか。
 木伏も、先に名前の挙げられた三人が、国会の野党代表であるという事以外にもイロイロと後ろ暗い噂の絶えない事を知っている。しかしそれが、よもや国家的テロ組織との間で行われた交渉である可能性があるなどと、思いはしなかった。
 この街で、一方的に傷つけられる自分たちの中の、一体誰が〈E.A.S.T.s〉の味方をするのか――木伏など、そんな風にすら思っていたというのに。
 ギルは――おそらく、木伏のような一般的な偏見など持たない軍医は、〈E.A.S.T.s〉の指導者であると思われる大佐から、〈西方協会〉の指導者の一人と思われる黒服の男へ目を転じる。
「しかし、キザキはまだ〈西方協会〉側のはずだ。そうだろう?」
 ミツヤはギルからの視線に対し、軽く頷いて見せた。肯定の意思表示だったが、渋い顔でもある。
「確かに我々の協力者ですが、キザキは基本的に中立です。ご存じかも知れませんが、彼らの一族は、昔から自分の持つ権力の大きさと影響力を良く知ってるので、本当に必要な時にしか動いたりはしません。今の当主も〈E.A.S.T.s〉の力が状況の終息を早めると判断すれば、受け入れ側にまわるでしょう。そしておそらく、その判断は間違ってはいない。その意味では非常に現実的で信用できる人物ですよ」
「アカデミーの最大の支援者はキザキだったな、セイコ?」
「昔はそうね」
 ギルの仕切りを面白そうに眺めていた赤いドレスの女は、モニターの中で語り続ける〈E.A.S.T.s〉の演説をチラチラと気にしていた。
「でも、ここ最近はダイム。あの人は元々学者だったから、アカデミーへの理解もあるし。キザキは〈西方協会〉の支持者だったのに物理偏重者の現実主義者だから、〈人格波動〉の概念を受け入れ難いみたいなの。で、時代的に〈人格波動〉に目をつけざるを得ないアカデミーに愛想をつかせて、一時的に手を引いてる。……会ったこともあるけど、いい男よ。外見も中身も刀みたいな男。早死にしそうで、貴方が好きそうなタイプ」
 その時だった。
 コール音が鳴り響く。木伏のホットラインだ。襟につけられた無線のスイッチをオンにしながら、彼女は自分に向けられるこの場の人々の視線を気にした。
「木伏です」
『相田です。ギルも一緒ですね?』
 このホットラインを使う人間と言えば弥彦だと思い込んでいただけに、意外な人物からの返答に数瞬の間、面食らう木伏。確かに、〈フィストドライブ〉の試験装着者としてギルの下へ配属されている間は、木伏達より下の階級の扱いになっていたはずだ。直接の上司としての木伏へ、この回線がつなげられるのも当然である。
 そして、この特殊すぎる青年は、上司の――今はギルの言葉によって行動する兵士だ。そして、そのギルは〈軍部〉の無線を持ち歩かない。持っているのかも知れないが、使っているところを見たことがない。一裕もそれもわかっていて、更に無線の勝手もあって、一緒に行動していると思われる木伏に連絡を取ってきたのだろう。
 それらを自分に納得させながら、木伏は一裕の言葉を耳にする。
『〈フリーク〉の出現についてはご存じですか?』
「確認しました」
『ではギルの指示をお願いします。私の独断で〈フィストドライブ〉の手配をしました。ケネス分隊が弥彦の元へ直接運搬します。弥彦はアキオと別行動中、自分は弥彦と合流しますが、柚実は保護した一般人の護衛として車中に残しています。次の指示をお願いします』
 木伏はよどみなく言葉を続ける相田に感心する一方、言葉を切った途端、立て続けに鳴り響く大型拳銃の轟音で音の割れるスピーカーにむかって顔をしかめた。急いで一時的に回線を切る。
 そして、あらためて自分を見守る各団体の代表者の目を気にした。こんな状況で、ギルに向かって作戦行動を報告してよいのだろうか?
「アキオは一人にしても構いません」
 ミツヤが戸惑う木伏を差し置いて告げた。ホットラインの内容は、木伏にだけ聞こえる音量に調節されているはずだが、この異能の人々達の中においては、そのような用心など意味をなさないのかも知れない。もっとも、ミツヤは〈西方協会〉の内部でやりとりしているようだから、そちらからの情報で状況とホットラインの内容を察しての発言かも知れないが。
「アキオは〈西方協会〉が責任をもって護衛します。〈特務〉の事は〈特務〉で判断してください」
 木伏はギルに近づき、相田の言葉を小声で繰り返した。聞き耳を立てる軍医は、じっとモニターの一点を見つめて動かなくなる。真剣に聞き取り、考えているのだろうが――木伏はそんな彼の動作一つ一つが、ある意味不気味でもあり、恐怖でもあった。
 彼女の中にこびり付いた恐怖でもある、彼が次に何をするのかわからないという恐怖。
 だが彼女の心配も杞憂に終わり、ギルは落ち着いた様子で口を開く。あっけないほど、静かに。
「ケネス分隊の指揮権を一時こちらの分隊に移すよう、〈本庁〉に連絡しろ。弥彦が〈フィストドライブ〉を装着するまでは弥彦の護衛だ。その後は弥彦の護衛にケネス分隊から一人だけ残して、柚実の救出に行け。アキオは放っておいてかまわん。現場の指揮権は一裕に預けて、こちらから連絡するまでは現場の判断に任せた」
 木伏の心配も全く気にせず、淡々と指示する軍医。ふいに身を捻り、〈E.A.S.T.s〉の面々へ向かって冷笑。
「邪魔するなよ、トレイル? レイムーンが立派な演説してる最中だ、しゃしゃり出たら全部台無しになるぞ」
「まさか」
 黒いトレンチコートの男は、心底つまらないといった調子で肩をすくめてみせた。
「本当に面白いのは一週間後でしょ? 前座に飛びつくほどヒマじゃないし、アキオもついてるみたいだし、あんな面倒くさい奴がくっついてる前でじゃ、思いっきり遊べないだろ。行くつもりなんかハナからないよ」
 でもねと、手の中の杖をフラフラと上下に揺らして揺らしてみせる。
「〈赤目のフリーク〉が出てくるのなら、見に行っても良いよ。見に行くだけ。〈魔術的三位一体〉の概念を揺るがす珍獣様だもん、見なきゃ損でしょ? 百五十年前は別件でゴタゴタしてて、見物し損ねたんだよね。新種の魔物をどうするかは、見てから考えるさ」
 木伏は先刻、路上で別れた時に見た三条の、酷く虚ろな目を思い出していた。
 彼のイメージと目の前の人々の言動を重ね見る。そして自分の身に沸き起こる感情に気づいて驚く。
 怒りだ。
 先刻、ギルの姿に思い描いたものと同じイメージ。たった一人で、孤独に戦ってきた人間に対する好奇の視線、そして嘲りの言動。
 木伏は初めて、ギルと三条の関係を理解できたような気がした。
 彼らは基本的に同じ類の人間なのだ。誰も持ち得ぬ力と、誰にも代えられぬ能力と、それ故に孤立した環境と……二人を取り巻くものは、形こそ違えどよく似たものだったのだ。
 だからこそ、互いを信じ合い、そして互いを信じ切れないのだ。一人であることが当然の彼らは。
「アヤメ」
 ギルの声に我に返った木伏は、軍医の視線が自らのうなじへと注がれていることに気づいて息をのんだ。
 木伏の脳裏に、つい数分前に交わされたギルと酒上のやりとりが浮かぶ。夜の楽しみと、皮肉と期待を交じらせたギルの目線。そして路上で見た、唇を真っ赤な血で濡らしたギルの笑み。男の肌に口づけした彼の唇。
 そして今、自分を見つめるギルの唇。どちらかといえば薄いその形が、今は血糊もぬぐい取られたその表面が、木伏の目に飛び込んでくる。
 しかし彼は、あの時とは全く違った、冷ややかとも呼べそうな眼差しと口調で命じた。
「聞いてただろう? 一裕に連絡しろ、グズグズするな。弥彦が死んでもいいのか?」
 自分の連想が全くの的外れであることに気づいた木伏は、顔を赤らめると共に自らへの苛立ちを覚えた。自分がこの男に期待している事――その一端が、ほんのわずかな期待であっても垣間見えてしまった事に対する自己嫌悪だ。
 意識してしまったせいか、必要以上にうなじに触れることに抵抗を感じる。自分でも呆れるほどもたつきながら、襟元の無線で一裕=和政にギルの言葉を伝えた。



『諸君。
 〈E.A.S.T.s〉である者も、ただこの声を耳にしただけの者も、隣国でまどろむ大陸の人々も、全ての人類たる諸君。
 どうか恐れないでほしい。そしてこのような大きな時代に存在する責任を、重荷としてではなく喜びと笑顔で引き受けるという我々の覚悟を認めてほしい。
 〈E.A.S.T.s〉の諸兄、諸君。
 このような形で平和を築き上げる仕事は、『星の民』としても、最も崇高なる努力を必要とするだろう。
 しかし、もし我々がこの危機的状況において担った責任に対処するなかで、『星の民』にふさわしく高貴にふるまいさえすれば、我々は偉大な国を築くにふさわしい存在でありつづけるのだ。
 もし我々が混乱の最中でさえも偉大な民でありつづけるなら、今後に待ちかまえる建国の困難に対処するなかでも、高貴にふるまうことができるだろう。
 なんら恥じることなく、動じることなく、卑屈になることなく』



 時計を見る余裕のなかった柚実は、一裕が出て行ってからどれぐらいの時間が過ぎ去ったのかわからなかった。ただ、ブルブルと震える美雪の体を抱えて、ほとんど見ることのできない外界の景色に目を走らせ続けていただけだ。
 最初は人影を、次に動くものを――何度も同じ動作を繰り返す事で、感覚が飽きてきてしまい、行動が単純化される。動かぬ景色の中で動くものが見えたら、それは〈フリーク〉である可能性が高いのだ。
 動くもの――すっと視界に飛び込んできた動きに驚いて目をこらす。どこからかやって来た一羽のカラスだった。地面に舞い降りた勢いでたたらを踏む動作。群れのリーダーだったのか、それともその勇気ある行動に倣ったのだろうか。次々と地面に降りてきては、踊るような仕草で地面を飛び跳ねる黒い鳥達。
 ほっとしたのも束の間。今度はそのカラスたちが一斉に飛び立つ姿に虚をつかれる。
 彼らを見送りながら、柚実はわずかながら苦笑する事ができた。自分の過剰なまでの怯え方を自覚できたが故の笑みだった。
 大丈夫。一裕が〈フリーク〉を退治しながら出て行ったのだ。ここにはやってこない。すぐには。
――でも、もし一裕がどこかで殺されていたら?
 不意に美雪が体を強ばらせた。柚実の肩を掴む手に、痛いほどの力が加わる。声にならない声がその半開きの口から漏れ、そしてそれ以上の行動が出来なくなってしまったように固まった。
 柚実は、彼女を見ていない美雪の目線をたどる。
 窓の外。
 誰かがゆっくりと、足を引きずるようにやって来る。まだ遠いが、この車に向かってやって来ていることは確かだ。歩みの後に血が赤い線となって残り、よく見ればその体は頭部から流れ落ちる大量の血液に染め上げられていた。近隣高校の制服姿であるところを見る限り、自分たちと同じぐらいの年格好の少年。
――来たッ!
 ドキリと心臓が高鳴る。期待でも恐怖でもなく、ただの事実、ただの衝撃として。
 柚実は抱きしめていた美雪を自分の背にかばうように押しのけ、『銀色の壁』を前方の敵に向かって設置しようとした。アキオと確認した限り、『銀色の壁』の発動範囲は半径二十メートルが限界だ。訓練次第ではもう少し先まで動かせるかも知れないと木伏が言ってくれたことがあるが、今できるのはそれが限界。なら……その限界の地点で、〈フリーク〉を足止めする。美雪を安心させる為に。
 壁のイメージを、出来るだけ遠くに設置する。〈フリーク〉と思われる人影と車両の間に銀色の染みが出現。ぼんやりと浮かぶ銀色の円盤――それを、〈フリーク〉の面前まで押しつけるべく、柚実は無意識に手を伸ばして押し出す動作。
 〈フリーク〉が立ち止まる。もがき出す。自分の身に起ったことが理解できていないようだ。頭部が損傷していることと関係があるのかも知れない。『銀色の壁』を掴み、ハンドルを回すような動作で無理矢理捻り――滑稽そのものだが、〈フリーク〉と柚実としては死活問題だ――動かない事に気づいて更に捻る。
 柚実は自分の能力が持ちこたえる事を祈った。能力者の能力は、自分の〈人格波動〉の余剰分でしかない。言うなればそれは、自らの体の延長でもあるのだ。能力を強制的に排除されると、その分のダメージは自分自身への痛みとなって返ってくる。ちょうど、自分の余剰分の〈人格波動〉であった二重現身を受け入れた時のように、全身を苛む痛みとなるのだ。伸ばした手を誰かに弾かれるか、自分で引き戻すかの違いのようなものと考えればいいだろう。
 〈フリーク〉と『銀色の壁』の力比べが均衡状態に陥った事に安堵する間もなく、轟音が車中を襲った。降り注ぐようなその音、バラバラと鳴り響く音。柚実は自分達に迫ってくるような、狭い車内の天井を見上げた。
 降ってきた――〈フリーク〉がどこからか降ってきたのだ。車の上で暴れている。どんな様子か確認することができないが、支離滅裂に車の上で指先を屋根に叩きつけ、リズムのバラバラなステップを踏み続けている。先の〈フリーク〉と違い、行動が過激だ。
 柚実は〈フリーク〉についての知識も浅く、〈フリーク〉が敵意を見せた後に暴力的になるということも知らなかった。もっとも、知っていたとしても、現実として迫った危機に対して起こす行動は同じものになっていただろうが。
 柚実は右手を、コチラに向かってくる〈フリーク〉に向かって突き出すことで、遠方の壁を維持するイメージを作る。そして、左手を天井に向かって突き出した。
 『銀色の壁』を複数出現させたことはほとんど無い。アキオにやってみるようにとそそのかされて、一度二度やってみただけだ。それすら上手く設置することができなかった。
 しかし、やるしかない。
 天井を構成する何枚もの鋼材の向こう側――〈フリーク〉がいるであろうその場所に向かって、出来る限りの大きさで『銀色の壁』を発現させる。『銀色の壁』の大きさは最大約一メートル四方。だが当然のことながら、範囲が広くなればなるほど、それを設置する柚実の意識は散らされ、その分強度は弱化する。しかし今は〈フリーク〉の攻撃から屋根を守り、そこから突き飛ばす事が目的だ。堅さは考えずに範囲を重視する。
 『銀色の壁』を出現させるイメージ、次いでその壁を急速に上昇させるイメージ。〈フリーク〉が屋根のどの辺りにいたとしても、これで振り落とせるはずだ。
 だが、壁を上昇させた瞬間、柚実は全身に突き刺さるような痛みを感じ、息を詰まらせた。
 遠方に設置した『銀色の壁』が、柚実の注意がそれたが為に硬度を失い、力任せに組み付かれていた〈フリーク〉によって破壊されたのだ。
 急いで気を取り直し、作業を続けようとするが、既に遅い。
 痛みによって天井の向こう側に設置されていた『銀色の壁』は消失していた。足元を掬われた形になって落下したのだろう、〈フリーク〉が大きな音を立ててルーフの端に落ち、その時ルーフに設置されていたキャリーでも掴んだのだろうか。ブランと窓の外にぶら下がった。
 飛び出しそうに目を見開いた、初老の女性だった。ぽかんと開いた口の中は真っ赤に塗れ、その色に見合ったものを食べた直後である事は間違いなく、それでいて表情らしい表情をみつける事ができなかった。
 バサバサに乱れた髪は所々何かの液体で規則性もなく顔面に張り付き、鼻が折れることも構わず、防護ガラスに顔面を押しつけた。折れた鼻柱が通常ではあり得ぬ方向に向き、鼻腔から血が噴き出す。それでも〈フリーク〉となった彼女は――中にいる柚実達を視認したのか、ガラスに張り付いて動かない。
 美雪が悲鳴を上げた。いや、柚実も叫んでいたのかも知れない――やっとの思いで息をついた時に、喉が痛んでいた。しかし、現実として自分の声が耳に届いていなかった。
 柚実はギルのカードを車窓に向かって飛ばした。顔を見たくない一心だった。一枚張り付く。足りない。鼻が隠れただけだ。
 無我夢中で、柚実は『もう一枚』のカードを飛ばした。
 片目が隠れる。足りない。もう一枚。まだ口が隠れていない。もう一枚。もう一枚、もう一枚、もう一枚ッ!
 窓が銀色のカードで完全に隠れ、外界からの光の差し込むスペースが一つ無くなる。
 少しだけ薄暗くなった車内で、柚実はふと我に返る。
 カード? ギルのカードは、一枚だったんじゃ?
 柚実はもう一枚――車内の別の窓に向かって貼り付けようとする。ギルのカードは、窓を覆う無数のカードの一枚から剥がれ落ちるように飛来し、柚実の想定した場所に張り付いた。
――増えている? この場で?
 自分の見たものが信じられなかったが、ギルのカードは柚実の意思と連動して、その数を増やせるようだ。
 張り詰めていた神経が、ほんの少しだけ緩む。
 このカードは得体の知れない武器だが、強力な武器であることも確かだろう。それをギルが自分に渡したままだということは、柚実の身を案じていてくれているという事だと解釈したのだ。あの苦手な眼差しの奥に、自分に対する好意を感じ取る。
 それが誤解や錯覚だったとしても、柚実はそれにしがみついた。しがみつくしかなかった。なぜなら、今この場には自分しか頼れる人間が存在せず、他者の助けと呼べそうなものがギルのカードしか無かったからだ。
 だがその好意とも呼べないようなわずかな意思が、他者の自信を取り戻させ、勇気を与える時もある。
 柚実は自分が相手していたもう一体の〈フリーク〉を思い出し、振り返る。足止めになっていた『銀色の壁』を破壊された今、彼は自分達に向かって前進を再開しているはずだ。
 案の定、その顔がはっきりと確認できるほど側にやってきていた。
 反面、窓の外でぶら下がる〈フリーク〉が、今度は側面を叩き始めたが無視する。その音に怯える美雪を、柚実はシートの足元に引き倒した。咄嗟の判断だったが、そう悪くないと思った。仮に装甲車の側面が破られたとしても、破片でケガをするリスクは激減するはずだし、美雪がパニックで暴れる事を防ぐ事も出来る。下方からの攻撃は、ショックアンカーが打ち込んである以上転倒する危険もないし、そうあるとは思えない。
「伏せて、じっとしてて」
「せ、せ、せ先……輩ッ、でも――ッ!」
 声が震えていた。何があっても明るく振る舞う事を忘れない、いじらしいほどにポジティブであることを心がける子だった美雪が、自分の想像を越えた現象に打ちのめされていた。
 だからこそと、柚実は叫ぶ。この場に居ないギルからもらった勇気を――彼女の妄想だったとしても、現実として戦う力となっているその勇気を、後輩の前に広げてみせる。
「私が守るから、私が勝つから! 私だって〈特務〉なんだから、大丈夫! 絶対に、ウチに帰してあげるから、だからここで待ってて!」
 柚実は銀のカードを美雪の上に並べるイメージ。カードを動かしたり増やす事に、特に抵抗や疲労を感じたりはしない。カードの機能として、柚実の〈人格波動〉を拡大することができるのかもしれない。
 柚実は近づいていた男子高校生の〈フリーク〉に向かって『銀色の壁』を再度発動。
 今度は足止め用の壁だけではない。その背後の上空に、円盤状の『銀色の壁』をもう一枚配置。
 柚実は思いっきり息を吸い込み、止めた。

 今まで何度同じ事をやっただろう。
 美雪の前で、何度も――練習でも本番でも、柚実は何度も同じようにしてきた。
 脳裏に描くイメージ。あの夜、目をくり抜く〈赤目のフリーク〉に遭遇した時も、その数十分前までは同じ事をしていたのだ。
 腕を振り上げ、降ろすイメージ。
 ジャンプして、腕を振り降ろすイメージ。
 腕を振り抜くイメージ。
 少し背が高いから――それだけの理由で初めたはずなのに、いつの間にか夢中になっていた。自分の学生時代の象徴でもある活動。その動き。
 そして覚悟。
 イメージの中で、柚実は目の前の白い球に向かい、思いっきり掌を叩きつけた。

 二枚目の『銀色の壁』が、高速で落下する。
 攻撃に移った柚実のイメージを反映し、急角度で地面を目指す。その進むべき斜線上にいる〈フリーク〉の首筋に向かって。
 一枚目の『銀色の壁』によって動きを止められていた〈フリーク〉は、背後、それも上空からの攻撃に気づかなかった。高速で飛来する硬質の物体は、形こそ違えど断頭台の刃そのものだ。あっけなく首を刎ねとばし、地面に突き刺さる『銀色の壁』。
 頭部を無くした首から、血が噴き出した。しかし〈フリーク〉の体は停まらない。そして柚実の中に、〈フリーク〉の息の根を止める知識は皆無に等しい。柚実は歯を食いしばり、凄惨な光景を睨んだ。この戦闘の終了にむかって何をするべきかを、景色の中に模索する。
 首からの奔流で出来はじめた血溜まりの中に転がる〈フリーク〉の頭部を探し、ウロウロと這い回る首のない体。その体へ、出現させている二枚の『銀色の壁』を再度突き立てる。
 アタック。そしてアタック。掌を叩きつけるイメージ。
 腕がもがれる。腹が裂ける。それでも停まらない。三度アタック、アタック。胸が割れ、肋が飛び出す。足が切断される。それでも停まらない。アタック、アタック。胴体が千切れる。伸ばされた手が縦に裂ける。
それでも停まらない。
 その時、地面に落ちていた頭部の、その目が動いたような気がした。
 錯覚だったかも知れないが、その時の柚実にはこの終わらない戦闘に対する恐怖の、一つの解答のように見えた。
 そして、実際その通りだった。
 二枚の『銀色の壁』を頭部に向かって同時に飛来させる。完全に沈黙させたいが為に必死だった。
 三つに輪切りにされた表情と共に、〈フリーク〉は動きを止める。

 バラバラに刻まれ、何もかもがまき散らされた体。
 これが、柚実が初めて自分の手でとどめを刺した人体だった。
 そして、その体の転がる路上。
 今まで生活してきた街の、ごく普通の路上。全くといって良いほど変わらない街の風景。
 でもそこは、既に見知らぬ場所として柚実の目には映っていた。
 どこから、何が襲いかかっても不思議ではない場所。
 今この瞬間の柚実にとって、街とは戦場を意味する言葉でしかなった。
 そして、その意味がいつまで続くのか見当もつかないのだ。今日の戦いが終わる時か、百五十年ぶりの〈カタストロフィ〉が終息する時か、それとも〈特務〉に残り続ける限り続くのか。
 経験のない柚実にはわからないのだ。その時が訪れない限り。
 〈フリーク〉の脅威とは別に、永遠に続くかも知れない戦いが目の前に広がっていた。

 だが、その感慨にふける暇など柚実にはない。守るべき後輩が側に居るかぎり、今は戦い続けるしかないのだ。
 未だに側面に張り付いている女性の〈フリーク〉を始末するべく、柚実は狭い車内を――〈フリーク〉に向かって移動した。



『我々は自分の高貴なる血に恥じぬ振る舞いをしようではないか。
 我らの振る舞いが、たとえ我々自身が忘れてしまったとしても、人々の記憶に刻まれるものとなるよう、人々の尊敬を受けるに値するものとなるよう、胸を張って出て行こう。
 そう、我々の振る舞いを、全世界が見ているのだ、我らが同胞よ、我らが同志よ!
 ならば見せてやろうではないか、英雄の存在しない時代に、真の英雄たる姿を!』







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