R-T-X 「11・涙と青年(下)」
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 弥彦たちの一団をモニターを通して眺めていたトレイルは、大げさにのけぞって嘆いて見せた。
「こいつは参ったね。よりにもよって、〈バーンサザード〉の跡継ぎをやっちゃったか! でも、〈教皇〉はこれぐらいで、あの立派な演説を無駄になんかしないよね?」
 ミツヤは平板に応じた。冷たく表情を変えずに。
「ご存じだと思いますが、〈バーンサザード〉は〈西方協会〉のものじゃありません。〈皇帝〉のもの、彼の私有軍です。〈皇帝〉がどう考えるかは、私の感知するところではありません」
「でも、彼らは君の命令で動くこともあるじゃないか」
「それは彼ら自身の判断で、私の命令を実行することが〈皇帝〉の益になると判断したからにすぎません。それに、〈西方協会〉が彼らを自軍として扱った事実はありません。あいにくですが、私個人は、彼らの指揮系統からは除外されていますので」
 言葉を切り、ミツヤは静かに腕を組んだ。
「しかし、我々の切れるカードの一つが消えたのは確かだ。この落とし前は、どうつけていただけるのでしょうかね?」
「おや、〈教皇〉ともあろうものが、物乞いかい?」
「誠意の問題ですよ、トレイル師」
 いいじゃないかと口を挟んだのは、レイムーン大佐だった。銀色の髪をかきあげながら、口元を皮肉に歪める。
「間の悪い事に、この映像はリアルタイムで配信されている可能性がある。この事実を目にする人々は、〈E.A.S.T.s〉はやっぱり信用できぬ集団と考えるだろう? 安心させてやろうじゃないか。〈西方協会〉は、何がお望みだい?」
 ミツヤは腕組みを解いた。
 そら恐ろしいまでに真っ直ぐ、レイムーンのスクリーングラスに視線を注ぐ。
「本気で、言うよ? 良いのかい?」
「私にできる範囲でならね。今の私がレイムーンだと知っての話なんだろうね?」
「もちろんだ。この場を仕切ってるギルと、酒上博士たちにも証人になってもらおう」
 さすがにレイムーンも不思議に思ったのか、一度だけ、トレイルに顔を向けた。魔術師を名乗る小男は、どうぞとジェスチャー。
「陛下の御心のままに。それを実現する為に私という魔術師が付いているのですから」
 レイムーンが、かすかに息を吐きながら笑った。
 間違いなく、トレイルを信用していないが故の苦笑だ。
 この〈E.A.S.T.s〉の重鎮と思われる二人も、決して一枚岩というわけではないらしい。
「聞こうじゃないか、ミツヤ。君の求める誠意とやらは、なんだい?」
 ミツヤは先からの眼差しを揺るがせず、極めて真剣に――少なくとも木伏が抱いた感想の範囲では、相手にも己にも有無を言わせぬ調子で、告げた。
「君自身を、私の相談役として派遣してくれ」
 さすがに、その場の全員が一斉に息をのんだ。反応が薄かったのは、〈E.A.S.T.s〉の連れてきたボディガードの少女ぐらいだ。それでも、リッパーと呼ばれていた彼女でさえ、不安げにレイムーンを見上げた。
 そして、指名された本人は、口元を驚きに強ばらせたまま問い返す。
「私自身を? 本気か、ミツヤ?」
「君は今、〈E.A.S.T.s〉の首領ではなく、〈E.A.S.T.s〉のレイムーン大佐であるはずだ。〈西方協会〉と〈E.A.S.T.s〉の架け橋として、私の元に派遣された軍人として、私の側にいてほしい」
「つまり、捕虜として?」
「相談役だと言ったはずだ。だから君の部下を一人……ああ、その女性を一緒に連れてきても良い。ボディガードとしてね。それ以上は御免こうむる」
「私が、〈バーンサザード〉の若造と同じぐらいの価値しかないというわけか」
「少なくとも、ルカはレイムーン大佐と同じぐらいの価値だとしか言えないな。レザミオン総統と等価の存在なんて、そうはいないだろう? だけど君は今、レイムーン大佐だと言っていたはずだ。互いのリスクを理解した上で、役割を交代したんだと。そうだろう?」
「相変わらず、君は予想外の事を言ってのけるんだな。それも、本気で」
「この事態そのものが、双方にとって予想外の事態だ。それだけの事だよ。それに、私が夢見がちな人間であることは、敵である君が一番良く知っているはずだ。私が……〈西方協会〉として言い出した事を、簡単には撤回しない事もね」
 レイムーンはさっと立ち上がった。隠された目元からはみ出すように、その表情には憤怒があった。興奮気味にまくしたてる。
「私が君の命を狙うわけがないとでも思ってるなら、それは間違いだぞ?」
「その言葉をそっくり君に返そう。私が〈西方協会〉を手に入れる為に何をしでかそうとしたのか、知らない君でもあるまい? そして、私が最後の最後まで、君を信頼して行動するということもわかっているはずだ」
「最後の最後だと? いつ、その時が来るのかわからないだろ? こんな事は自殺行為だ。ナンセンスでもある。曲がりなりにも一国の王同士の決闘で決着をつけろと? バカげてる!」
「ならば、それを対話で回避すればいい。私はずっとそう提案してきたはずだ。君か、私か、どちらかが倒れるまでいがみ合う方がよっぽどナンセンスだろう? 違うかい?」
 二人のタイプの異なる美丈夫は、にらみ合った。

 酒上生が、意外にも木伏に向かって話しかける。
「まるで、チェーンデスマッチという奴ですね。互いの手を鎖でつないで、離れられぬようにして戦うという奴です」
 気弱そうな顔立ちだけに、逆に笑みが際だつ。さわやかとまではいかないが、安心させてくれる笑みではある。
 酒上誓子は、この男に癒しを求めていたのだろうか――木伏はふと、そんな事すら思った。
 それとも、ギルとは正反対の彼を手中にすることで、ギルの事を忘れたかったのだろうか?
 酒上博士は、二人のやりとりを、うんざりした目で眺めている。彼らの関係には興味がないのだ。たとえそれが、彼女の大好きな権力に関することでも。
「誓子、どうする?」
 夫の問いかけに、女博士は眉をひそめてみせた。
「どうする? 何を? 〈西方協会〉がレムーン大佐をどうこうするのは、軍の仕事でもアカデミーの仕事でもないわ。好きにしてちょうだい」
「そこじゃないだろ? 平時の〈フィストドライブ〉の投入時期について、内密に相談できる人間がいなくなるのは問題じゃないかい?」
「ああ……そういう意味ね? でもそれはトレイル師に相談させてもらえればいいわ。ねぇ、先生? 先生もそうするでしょう?」
 ギルは無言で、目を閉じたままだ。
 思案しているようでもあり、眠っているようでもある。 誓子はしばらくそんなギルを眺めていた、が、唐突に小さく笑みを浮かべる。
「そうね……こんな俗っぽい事に関わってるのは、先生らしくないですね」
 その言葉で、木伏の背筋に電流が走った。
 赤いカマキリに見えていた彼女が、とたんに恐ろしい毒針を隠したクラゲのように見えてくる。
――ギルが関わっていたら?
 この二人のやりとりが、たとえばギルの身をどうするかの相談だったとしたら、こんなにもゆったり構えているだろうか? たとえばこのやりとりが、ギルの指示から始まった口論だっとしたら、ここまで無関心でいただろうか?
 木伏が見てる限り、彼女は今でもギルにこだわっている。
 いや、恨んでいると言っても良い。
 そしてギルもバカではない。彼女の気持ちを知っているはずだ。だからこそ、アポなしでも対面できると踏んでいたに違いない。
 そして、妻がギルにこだわるからこそ、その夫は、その他の部分に目を向けるのだろう。今のように、二人の指導者の争いにどんな重要な意味があるのか、妻に少しでも伝えようと。
 ある意味、バランスのとれた夫婦なのだ。
 そのバランスが崩れるとしたら……それは、今だ。
 二人の前に、ギル本人が現れた今、この瞬間だ。
「仕切りは私だったはずだ」
 ギルが目を閉じたまま、声を張り上げた。
「ミツヤ、おまえの提案は気に入った。〈バーンサザード〉とレザミオンを吊りあわせようって発想は面白いじゃないか。自分から言い出した以上、覚悟もできてるんだろうな? だったらやってみればいい」
「ギル――」
 レイムーンの抗議の声を片手をあげて制止したギルは、淡々と続けた。
「レザミオン、考えようによっては、お前にもメリットはあるはずだ。〈西方協会〉のミツヤをコントロールできる機会なんて、滅多にないぞ? 良くも悪くも、ミツヤはお前の見てる前で下手な動きはできないはずだ。それに、相談役なんだから、いくらでも助言してやればいい。それによってミツヤが間違った判断を下すかどうかわからんが、少なくとも、奴の判断を一番最初に耳にすることができる。この機会を生かすのはお前の裁量次第になるな。どうだ?」
 ギルはゆっくりと瞼を持ち上げた。
 最初から見えていたかのように、レイムーン大佐へ真っ直ぐ、視線を投げる。
 口元は笑っていた。
「それとも、対峙する自信がないのか? シラトス皇帝を名乗るクセに?」
 文字通りの悪魔の囁き。
 レイムーンの顔つきが変わった。
 憤怒だけではない。ギルの脅迫めいた笑みとその言葉に、挑発された自分の中に選択肢が無くなった事を理解した顔だ。やりこなすしかないと覚悟を決めた、いや、決めさせられた怒りの顔だ。
「急な話です。三日ほど時間をいただきたい」
 ギルは瞼をあけた時と同じ速度で、ゆっくりと首を振った。
「ダメだ。どうせトレイルが連絡をとるんだろう? ならば明日からで十分のはずだ」
「姿を見せないと信用の問題になります」
「ならば明日の夜、零時までだ。明後日に日付が変わる前までに、我々の前に姿をあらわせ。場所は〈アカデミー〉の戦略研究室酒上ゼミだ。あそこなら二十四時間、間違いなく開いてるし、厳重に監視もされている。空間断層の隙間だから余分な〈人格波動〉は打ち消される、能力的にも魔術的にも、もちろん物理的にも細工はできない。安心して来ればいい」
 よくご存じでと、誓子が皮肉を交えて呟いた。
 そのまま女博士は皆を眺めて一言。
「どちらにせよ、〈シェルドライブ〉を見ていただきたかったから好都合。興味ある方は先にいらっしゃっても結構です。夫共々、ご案内しますよ」
「この非常事態に、参謀殿をお借りしても良いのですか?」
 ミツヤが厳しい目線を酒上生に投げかけると、彼は気弱な笑みを浮かべて――だがしっかりとミツヤの目線を受け止めて、応えた。
「〈シェルドライブ〉は今回の作戦の要です。性能と合わせて作戦を説明する事が、相互協力の一歩である事は間違いありません。ならば、私の役割は妻の開発したものをどのように作戦に取り入れ、あなた方に納得していただけるよう提示できるかという一点にあります。これほど大事な役割に欠席するわけにはいきません。急な実戦配備は不安があるでしょうが、この事態に十分な戦力となることをご説明させていただきます」
 ミツヤはややしばらく、生と目線を合わせていたが、最後には根負けしたように小さく息を吐いて頷いた。
「わかりました。では明日までに伺う時間を連絡させていただきます。こちらも、アキオの回復を早急に行わねばなりませんからね。明後日の、作戦決行までに」
 明後日と、誓子が呟く。
「そうね……このメンバーが納得している期限はその辺りって事ね」
 引き延ばす余裕はないからねと、トレイルが笑った。
「〈軍部〉はそのつもりのはずだよね? ギルを交えて空間崩壊のシミュレートをしたはずだ」
 生は穏やかに返答。
「〈六人議会〉は特別災害対策法に基づき、〈軍部〉選出のキザキ議員に決断を委任しました。早晩にも結論が出るでしょう。そして、キザキ議員はリアリストです。シミュレート結果を見て、仮に以前から〈アカデミー〉に不審を抱いてたとしても、国家の危機に私情で結論を先延ばしにするような方ではありません」
 誓子が生の口調とは正反対の、切り捨てるような口調で追加する。
「夫の言うとおり。開始時期は明後日です。キザキ議員がイヤだと言うなら、我々〈アカデミー〉がハイと言わせます。保証しますから」
 木伏は初めて、このメンバーが結束した瞬間を見たような気がした。
「明後日」
 ギルは囁き、そして声をあげて笑った。
「楽しみだな、その先、どんな地獄を見せてくれるのやら!」
 木伏は背筋に鳥肌が浮かぶのを自覚した。
 ギルの言葉にではない。
 彼の目が、木伏へと向けられているというのに――余りにも虚ろで、木伏を認識しているのかすら疑わしかったからだ。



 停止した一行を動かすべく、最初の一歩を踏み出したのはクニミだった。
 全くの烏合の衆であった〈E.A.S.T.s〉を、短時間で、曲がりなりにも一集団として率いてきた彼は、堂々と胸を張って、疲れきっているアキオの前に歩み寄った。
 ルカの事もあって、〈西方協会〉の救護班の女性が、さっと間に立つ。無言だったが、その表情には明らかな警戒と怒りがあった。
 立ち止まったクニミは、その場で両膝をつき、手をつき、頭を下げた。
「すまない」
 額を地面に押しつけ、クニミは、凛とした声を張り上げる。
「〈E.A.S.T.s〉の一人が、勝手なことをしてしまった。ルカが死んだのは全くの誤算だ。申し訳ない」
 謝罪だ。しかし、その謝罪には絶対に折れない意志がかいま見えた。
 ここで引けば、この対等な立場であった二つの集団のパワーバランスがどう傾くのか、よくわかった上での立場なのだろう。
 最悪の場合、〈西方協会〉に所属する者達からの私刑もありうると。
「レザミオンの意志は共闘だ。俺は〈E.A.S.T.s〉の一人として、彼の宣言が撤回されるまで、あんた達に命を預ける覚悟はできてる。ルカが死んだことを水に流せとは言わない。だがこの誤算で、レザミオンの願った共闘を破棄されるのは我慢できない」
 クニミの先手に、〈西方協会〉はざわめく。具体的な発言は見られなかったが、ルカの死体を抱える若者の集団は、あからさまな敵意と侮蔑を示した。
 アキオが抱えられていた大男の腕から離れ、ふらつきながら、自分の前に立った救護班の女性の肩にとりすがった。そのまま彼女にもたれながら、アキオはクニミに顔を向ける。
 クニミがその気になったら、十分に攻撃できる距離だ。さすがに弥彦も割って入ろうとしたが、アキオがいらないとばかりに手を振ったので足を止める。
 クニミが礼を尽くしたのに対し、アキオも、自分の命を晒して見せることを選んだのだ。
「レザミオンの真意はわからん。だが、あんた達の仲間が一人死んだのは本当だ」
 ふらつく体とは反対の、芯の通った声で、快活に、アキオは自嘲気味の声をあげた。
「俺は〈E.A.S.T.s〉の人間の、何人に恨まれても仕方ない人間だ。だからルカが死んだ原因は俺にあるんで、あんたを恨むのは筋違いってもんだ。互いに痛み分け、ここらで手打ちにしような。ほら、立ってくれ」
 クニミが同意を示して立ち上がると、アキオは大きく息を吐き、弥彦を手招きする。
「よし、大将。次に行こうや。俺もさっさと終わらせて、ゆっくりしたいね」
 その声だけなら、回復したように感じられただろう。もしかしたら、これも何らかの魔術の作用かもしれない。ただし、彼の立っていられないほど衰弱した体を見ている弥彦には、まるでどこかのテープレコーダーが囁いている言葉のようにも聞こえるのだが。
 アキオの身を支えていた救護班の女性が、目頭いっぱいに溜めた涙をぽろりとこぼした姿を見れば、何らかのごまかしが行われているのは確かに感じられる。
 移動の為、再び両陣営が左右に分かれて楔の陣をとる。アキオも再び大男に抱えられ――そして新たに、〈西方協会〉と〈E.A.S.T.s〉のそれぞれから、ルカと暗殺者の死体を背負う二人が殿にまわる。その二人の監視にと、〈特務〉からも一人が殿についた。
 それらを眺めて確認し、弥彦は先行の和政を思った。
 彼の指揮官ぶりは、自分なんかより、ずっと板に付いていた。同期であるのに、この差はなんだ?
 ギルは弥彦に言った。嫉妬するのは間違いだと。それは、この違いでもあったのだ。
 和政は自分のことしか考えない。自分への命令を実行する為に、なんでもしてみせる――それは、自分の目的の為には、なんでもやるという事でもあり、その一環として、周囲の状況を把握し、コントロールする指揮官の行動でもあったのだ。
 弥彦は〈フィストドライブ〉に目を落とす。
――本当に自分の事しか考えてなかったのは、むしろ自分だ。
 他人の為に戦うと言いながら、自分の事しか考えてなかった。自分が戦いきれば、皆の心も一緒についてくると思っていた。
 だから笑ったのに。戦う為に笑って、力を振り絞ってきたのに。
――でも、誰の心も見抜けなかった。
 アキオを狙ってる存在なんて、はなから想像できていなかった。
 あのまま和政がいたなら、あの邪心を見抜いてさっさと処置し、ルカを殺さずに済んだのかもしれないのに。
 いや、自分が見抜いたとして、止めることができただろうか? 正しく処理できただろうか?
 比べるなと言われても、どうしても比べてしまう。
 自分の思慮のなさに、頭を抱えたくなる。
「弥彦補佐官?」
 配置についたまま命令を待っていた〈特務〉の一人が――弥彦より年上の男性だったが、目下のところ、指揮権はあくまで弥彦の手中にあるのだ――遠慮がちに声をかけてきた。
 我に返った弥彦は、〈フィストドライブ〉を地面から持ち上げる。
 先に手にした時より、ずっしりと、はるかに重い。〈人格波動〉の数値が下がっているのだろう。稼動音の唸りも聞こえない為、重量軽減のサポートも十分に働いていないに違いない。
 ライフルを抱えるように〈フィストドライブ〉を胸の前で抱え、弥彦は声を張り上げた。
 せめて号令だけでも、隊長らしく。
「では、予定通り、進みましょう」
 そして、先陣を切って歩きだした。



 柚実はぼんやりと、自分たちの前に現れた同い年の〈特務〉の姿を眺めた。
 相田一裕は、三条の激怒を平然と受け止め、周囲を警戒しながらゆっくりと近づいてくる。
 柚実を助けた三条が、いまだ放心状態の彼女を守って〈フリーク〉たちを迎撃するが、その三条の背後に迫るものたちを、一裕は顔色一つ変えずに大型拳銃の一撃で撃ち落とし続ける。
 柚実の肩を抱えていた、別の〈特務〉の少年――柚実を助けに来たケネス小隊のコージ――が、ガタガタ震えながら何度も呟いた。
「なんなんだ、これ! ……すげぇ……どっちもすげぇ! こんなガンアクション、見たことねぇ! すげぇよ! すごすぎるよ!」
 そんなもんかと、柚実はぼんやり考える。
 彼らがどれだけ凄かろうが、自分は全く、ダメだ。
 彼らがどれだけ凄かったとしても、美雪はすでに死んでしまった。
 佐々木柚実のせいで。
 佐々木柚実のせいだ。
 三条は〈特務〉の黒いジャケットから、返り血である赤黒い血を滴らせる。その拳を振るうべく体を捻るたびに、それらの滴が宙に、地面に、雨あられと振りまかれる。
 だがそれ以上に、拳によって破壊された肉塊が、大きな絵筆となって地面を塗りつぶす。
 その黒いジャケットの旋風が移動すれば、その動きに合わせて大型拳銃の轟音がつき従う。
 三条が竜巻そのものならば、一裕のばらまく銃弾は雷雨のようだ。
 彼らの向かう先は、コージの上司であるケネスとその部下であるブレジンが苦戦する場。三条と一裕はあっという間に駆け寄り、そして敵を一掃する。
 〈フリーク〉を片手の一振りで吹っ飛ばす能力を持つブレジンと、彼を補佐するべく必死で大型拳銃を振りまわしていたケネスだ。〈フリーク〉に致命傷を与えられずに苦戦していたが、三条の介入によって安堵の息をつく。
 それもつかの間。
 壮年のケネスとブレジンも、半ば〈赤目のフリーク〉と化した三条の形相に、全身を強ばらせた。
 その顔面のほとんどを覆った巨大な赤い眼球の異様さに、目を奪われているのだ。
 もちろん、その行動から、自分たちの味方だとは気づいているだろう。だが、自分たちの仲間に〈フリーク〉以上の異形の〈フリーク〉がいるとは、想定していなかったのだ。
 三条はその視線を、荒い息をつきながら黙って受け止める。
 その間に周囲を伺っていた一裕が、油断なく拳銃を手にぶら下げたまま、柚実たちの元へ戻ってくる。
 コージと共に座り込んでいた柚実の腕を引いて立ち上がらせ、全身に視線を走らせた。
「無事か」
 問いかけでも、喜びでもない。
 転がっていた武器を拾って、まだ使えると確認した。そんな口調だ。
 コージは何度も柚実の顔をのぞき込んだが、柚実にはその気遣いに応える気力も失せていた。
 二人をケネスたちに合流させた一裕に、三条は〈赤目〉の姿のまま、問いかける。
「なぜ、助けなかった?」
 二度目だ。
 美雪の〈フリーク〉に殺される覚悟を決めた柚実を助けた、その時にも――三条は、すでに接近していたと思われる一裕に、同じ文言で尋ねた。
 真っ正面から異形の瞳で睨まれた一裕は、悪びれもせずに返答。
「生き延びる手段は残っていた」
「あの状況で、か? 能力者が意志を失ったら、何もできないのは知っているだろう? 〈特務〉なら常識もいいところだ」
「生き延びる意志があれば、防げたはずだ。生き延びる意志を放棄したから、能力が発動しなかった。そんな奴を助けても、今後何度も助けを求められるなんてごめんだ」
「誰にだって、落ち込むことはある! 目の前で親しい人間が死んだばかりなら、尚更だ!」
「だからですよ」
 興奮気味で、しかも変身中の〈赤目〉の、聞き取りづらいモゴモゴと牙をすりあわすような言葉に対し、一裕はあくまで冷静に、そして皮肉げに、挑戦的なほど平板に応え続ける。
「生きる手段があるのに使わない奴に、生き残る資格はない。生き残りたくないなら、さっさとこの世から退場すればいい。目の前で、しかもこの戦場で死にたいって言ってる甘ったれた奴を、どうして助けなきゃいけないんです? この女は重要参考人じゃない、一般兵だ。取り立てて保護する命令もない。守る必要なんてない。死にたいというなら、死なせてやる。それだけです」
 〈赤目〉の反論を待たずに、柚実へ吐き捨てる
「助けられる力があるのに、助けられなかった奴なら尚更だ。命で償いたいなら勝手に償え。俺を巻き込むな」
 柚実は頷いた。わかってる。わかっているから、償おうとしたのだ。無線で助けを呼ぶこともなく、誰にも理解されなくとも、美雪に殉じる事で自分なりに決着をつけるつもりだったのだ。
 少なくとも、今はそう思うのだ。あの、真っ白で絶望的な時間に、おそらく、自分はそう思ったのではないかと。
 ならば、〈赤目〉の援護は、確かに間違いである。
 一裕は正確に、柚実の気持ちを理解していた。そして、それが逃げ道であるとも知っていた。
 だからこそ……淡々と、怒りをぶつけてきている。抑揚のない冷たさで。ただの怒り以上の、突き放した怒り。
 柚実に反論する言葉など、ない。
 しかし、三条は違う。
「助ける力がある、ない……死んで良い、悪い……そんな事を決められるのは、お前じゃないだろ」
 その時の柚実は知らなかった。
 三条=〈赤目〉に、『三条尚起』という名の恩人がいたことを。
「本当に彼女が死にたがってたとしても、生き残った本人に償い方と覚悟を決めさせるのが、本当の償いってもんだろ! 横から見てたお前が、勝手に死んでいいなんて決めつけるんじゃねぇよ!」
 それは〈赤目〉の自己弁護だったのかもしれない。
 〈赤目〉がたどり着いた、彼なりの償いだったのかもしれない。
 だが、柚実には――どうしても違和感が残った。
 自分は違う、と。
 三条のように、敵討ちもできなければ、誰かを救える力も持たない。
 この先、どう償えば良いのか、全く想像できない。
 やっぱり自分は、あの時、命で償えばよかったのだ。
 三条は勘違いをしている。
 自分は覚悟してたのだ。死んで償うのが道だと覚悟していたのだ。
 邪魔をしたのは三条の方なのだ。
 しかし怒りがおさまらないのか、三条は一裕を睨み続けている。自分と一裕も相性が悪かったが、彼と一裕も相当だ。互いを意識している。それも悪い意味で。
 どうしても今の柚実には――普段なら三条へ好感が持てたのだろうが――傍観する以上の事ができなかった。
 そんな柚実の肩を、ケネス小隊のコージが叩く。
 ゆっくりと振り返る柚実に、まるで触ったのが間違いだったかのように手を引っ込めた。
 何度かためらった後――三条と一裕の無言の応酬におびえの目を走らせながら、コージは言った。
「あのさ……俺たち、途中から来たから、事情がわからないけど」
 一度言葉を切り、そして、小さな小さな声で、言った。
「君、がんばってたよ」
「……え?」
「大丈夫だよ、みんなわかってる。少なくとも、俺たちケネス小隊はみんな知ってるから」
 柚実は初めて、まともにコージの顔を見つめた。
 少なくとも、見ようとした。
 彼の言葉で自分の罪悪感に細波のたった柚実には、混乱とともに目にしたその風貌が、記憶に残りがたかったとしても。
「君が、あの子を助けようとした事、ずっと助けようとしてたって、俺たちは、見てたし、知ってるから。あの子だって……きっと、わかってたと思う」
 あの子。
 死んでしまった、あの子だ。
 美雪だ。
 あの子はもう、過去の存在なのだ。
 この、目の前に転がっている死体は。
「だから、元気だしなよ」
 コージが慰めてくれているのはよくわかる。
 自分の力不足もよくわかる。
 一裕の怒りも、三条なりの庇いだても、よくわかってる。
 だからこそ、悔しい。
 だからこそ、過去となってしまった美雪の死が辛い。
 だからこそ、惨めだ。
 不意に目頭が熱くなり、柚実は慌てて、両手で顔を覆った。
 それ以上は耐えようとしたのに、目の前が闇に閉ざされた瞬間、緊張の糸も途切れてしまったようだった。
 あとからあとから溢れる涙に、柚実は叫んだ。
 ふと――ギルの声が聞こえたような気がした。
『今のうちだけだ』
 ごめんなさいと、柚実は声にならない声で叫んだ。
 誰に対してなのかわからないまま、何度も、叫んだ。




 ケネスは無事だったが、ブレジンはわき腹の肉をえぐられて出血していた。
 ケネスは言うに及ばず、コージと一裕も、手持ちの応急処置キットから消毒と止血テープを取り出して出血を止めようとする。
 柚実はその騒ぎに気づきつつも、しゃくりあげる自分を押さえることができずに困惑していた。
 涙は止まっているのだが、痙攣した喉元が落ち着いてくれないのだ。
 〈特務〉が仲間を助けようとしている間、〈赤目〉は人気のない周囲を油断なく見張っていた。自分にできる一番の仕事が、彼らが集中して人命救助のできる環境を作ることだとわかっての行動だ。
 柚実は彼の背中を見上げながら、何度も自分の胸を押さえた。止まれ、止まれと、痙攣する体を止めようとした。
 だが、止まらない。
 柚実も戸惑っていたが、一裕たちもブレジンの容態に迷うばかりだった。傷そのものは小さいのだが深いらしく、内蔵の損傷も疑われはじめたのだ。
 なかなか止まらない血潮に、さすがの一裕も顔をしかめた頃だ。
 柚実が気づいた時には、陽気な笛の音がすぐ間近に迫っていた。ブレジンの荒い呼吸に気をとられていたからか。いや、コージの驚きを見るに、元より気づいていたのは、〈赤目〉と一裕ぐらいだっただろう。
 首元にタトゥーを入れた〈特務〉の男の、そのふざけた笛のリズムで先導された弥彦達は、〈赤目〉と一裕の始末した〈フリーク〉の姿に驚きの視線を飛ばしつつも、こちらに怪我人がいると気づいて駆け寄ってきた。
 顔をあげるのも辛そうなアキオに促され、救護班らしきの女性がブレジンの手当に向かう。
 柚実は、もう一人頼りにしていた人物――〈西方協会〉のアキオの弱りきった姿に息をのみ、そして止まっていた涙がまた溢れる事に困惑していた。
 いつのまに自分はこんなに泣き虫になっていたのだろうかと。



「どうやって先回りしたんだ? 早すぎるだろ?」
 一裕の姿に気づいた青い腕章の男が問いかける。
「ルカやアキオさんみたいに、人を一点から一点に移動させることができる能力者に手伝ってもらったんです。ここまで数秒とかからなかった」
「どこで?」
「こちらに向かう途中。無線で戦闘状況を確認したら、援護に駆けつけてくれた」
「……運が良すぎるんじゃないのか?」
「そうですかね? 弥彦の活躍をモニターで見たなら、自分も実物を見たいと思う能力者や〈特務〉は沢山いますよ?」
 クニミは、筋肉質な腕を組んで「そんなもんか」と唸った。
「ルカは?」
 一裕の問いかけに、クニミは首を振った。
「死んだよ。詳しいことは弥彦に聞いてくれ。うちの若い奴が暴走したんだ。すまない」
 一裕は黙って頷いた。特に感想はないようだ。「そうか。大変ですね」とだけ返答した。
 クニミと一裕が語らっている間に、〈赤目〉は遠巻きの、好奇の視線にさらされていた。三条は、自分からこの中途半端な状態から復帰することができないようだ。大きすぎる牙をすりあわせるように唸り、その大きな目を蠢かしている。
 〈フィストドライブ〉を装着したままの弥彦が、〈赤目〉に近づき、その好奇の視線は更に増えた。
「三条さんも来てくれたんですね」
 その弥彦の声に力がない。
「柚実ちゃんは――」
 〈赤目〉が黙って柚実を指さし、弥彦と柚実の視線が重なった。
 弥彦の安堵とも呼べそうなかすかな笑みが凍り付き、息をのみ、そしてゆっくりと辺りを見回した。
 そして――気づいた。



 柚実は弥彦が歩き出すその後ろについていった。
 弥彦が柚実の顔を見ただけで状況を把握してくれたことに感謝しつつも……それでもやはり、自分の力不足を彼に知られるのは恐ろしかった。
 あらためて、自分が見殺しにした命を確認させられるのが、怖かった。
 弥彦の背を追って、他の〈特務〉もゆっくりと動き出す。
 彼らは事情を知らない、途中から合流した人々だ。
 〈赤目〉も彼らの後ろからついてくるのが見えた。
 そして弥彦が地面に膝をつく。
 ゆっくりと、〈フィストドライブ〉では大きすぎる指が邪魔で抱き起こせない女子高生の遺体を、左腕で抱え上げた。
 顔は〈赤目〉によってつぶされ、下顎しか残っていなかった。緑の制服は真っ赤に染まっている。すでに赤黒く変色している部分すらある。
 背後がわずかにざわめいた。
 口々に言葉が漂う。戦闘の終了を確認した今、緊張から解き放たれた兵士達が、口々に軽口をたたき合う。

 曰く「スタイル良いのにもったいない」「あの学校の生徒ならお嬢様じゃねぇか」「いや、ああ見えてイメクラのオカマかもしれないからな、顔見ないと」「なんにせよ、避難しろっていってるのに逃げないからこうなるんだって」「いや、あの顎は絶対に美人だって」「どうでもいいけど、スリーサイズ当てて見ようぜ」……。

 柚実は黙って聞いていた。
 アキオの容態は気になっていたし、相変わらずしゃくりあげてはいたが、悲しみはわき起こらなかった。
 美雪のことを言われているとはわかっていたが、美雪のことだとは思えなかったのだ。ただ、後輩を貶めるような野卑な言葉が耳に飛び込んでくるたびに、あの――美雪の〈フリーク〉に首を捕まれた時に感じたような、体の内側が重くなっていく錯覚には陥っていた。
 その時だ。

 轟音が、一発。

 空気と共に揺れた地面に、柚実はもちろんのこと、〈特務〉たちも動きを止めた。
 弥彦の周りのアスファルトがひび割れている。
 〈フィストドライブ〉が、ごく自然に、地面を叩いた結果だった。巨大な手甲の抗議は、普通の人間が普通に怒って机を叩いた時の動きを、そのまま拡大して地面に置いただけだ。
 単純なだけに、その怒りの大きさを十分に表現している。
 弥彦は美雪の体を抱えて立ち上がった。すでに冷たいはずの彼女の体を大柄な弥彦が抱えると、遺体の足がブラブラと揺れた。
「巻き込まれて死んだ人間を、笑い物にすることはないだろ!」
 弥彦は、失われてしまった美雪の顔に視線を落として、彼女に怒りをぶつけるかのように、声を張り上げた。
「こんなことが、この先も続くんだ! もっと怒るべきだろ? もっと悲しむべきだろ? 〈特務〉は、こんなことが起こらないように戦うのが本当だろう? 犠牲者を見て笑ってる場合じゃないでしょうが!」
 弥彦の気迫に気圧され、皆が口をつぐむ。
 あらためて美雪の死体を見た柚実は、耐えられずに目をそらした。
 弥彦の言うとおりだ。
 〈特務〉はこんな事が起こらないように戦う。
 でも、もう自分は、戦う事もできないような気がする。こんな事が続くようなら、自分の力不足で人が何人も死ぬようになったら、自分は耐えられない。そうなるかもしれないという予測だけで、皆を守るはずの『銀色の壁』を作り出す自信がなくなってしまう。
 柚実は、うつむき続けた。
 その時だ。
「何を言ってんだよ」
 例の、笛を吹いてたタトゥーの〈特務〉が、沈黙する皆を眺め回して笑った。
「あんたこそ、俺たちが運んだそのデカブツ着けといて、今頃ノコノコやってきたくせに。あんたがもっと早くここに到着していれば、その女子高生も助かったんじゃねぇの?」
 屁理屈だ。
 柚実はすぐにその言いがかりに物言いをつける。
 しかし、心の中だけだ。
 今の柚実には、その屁理屈はとても魅力的だった。自分の責任だけじゃない――皆で保護しようとした美雪が死んだのは、他の〈特務〉が間に合わなかったという怠慢があったから――死の原因とその重みを分散できるタトゥー男の間違った理屈は、当事者ともいえる柚実の口を重くするほどに、魅力的だった。
「笑い者にすんな? 笑われるような死体になっちまったのは、あんたが間に合わなかったから、あんたが殺したからじゃねぇか。何を一人でキレてんだよ。あんたこそ、何にもできなかったくせに偉そうな事言うなよ」
「アーガイル!」
 コージが耐えかねて短く名を呼ぶ。
「お? コージじゃん。生きてたんだ? 真っ先に死ぬのは、何もできねぇお前だと思ってたのに」
 弥彦からコージに興味が移ったらしく、タトゥー男は柚実の横をすり抜け、その後ろに付き添っていたケネス小隊の少年に近づく。
「なんだか、ひでぇ顔してるな。怪我でもしたのか?」
「……いや……ちょっと酷い死体を見すぎたせいだよ、きっと。みんな、目の前で死んじゃったし」
「そーいや、隊長とブレジンしか見えねぇな。他は死んだのかよ。マヌケだなぁ」
「そういう言い方はやめろよ」
 コージが語気を強めて怒りを露わにすると、アーガイルも気がついたのか、口笛を吹いて黙った。
 柚実は弥彦の表情を盗み見る。
 歯を食いしばっていた。
 正義感の強い彼のことだ。アーガイルの言葉を真に受けているに違いない。彼がここにたどり着くのが早ければ、腕の中にいる美雪が死ぬことはなかったのだと。
 柚実は一瞬でも、アーガイルの言葉にすがりつこうとした自分を恥じた。
 弥彦のそばに言って、そんな事はないと、違うと声をかけたかったが、美雪の遺体に近づくのも怖かった。
 そっと、弥彦の視界に入る程度に、ゆっくりと、遠巻きに移動する。美雪の姿を見ないように、肩越しに視界を調節しながら、弥彦に気づいてもらおうとする。
 声もかけずに気づいてもらおうなど、甘えなのはわかっていた。
 しかし、甘えなければならないほど、柚実の心は疲弊してもいた。
 弥彦は、美雪の無くなった頭部に目を落としたままだったが、ふっと、力を抜いた。ゆっくりと、ぼんやりと声をあげる。
「柚実ちゃん」
 夢見心地のようなその言葉には、かすかな戸惑いもあった。
「美雪ちゃんって、足が速かったのかな? 運動会とか、アンカーで走ったこと、あるかい?」
 その言葉に、柚実の記憶がよみがえった。
 部活対抗リレーで、バレー部の代表として走った彼女の勇姿だ。二年生ながら、その脚力でアンカーを任せられた彼女の姿。
 しかし、どうして弥彦がそれを知っているのか?
 弥彦は再び、歯を食いしばったまま、美雪の無くなった頭部を眺めているようだ。
 だが、何か、おかしい。
 今の弥彦は、怒りに体を震わせているわけではないようだ。真剣に、何かを見届けようとしているような……。
 柚実は呆然としながら、いつの間にか喉元の痙攣がおさまり、しゃくりあげることも無くなっていた自分に気がついて驚いた。



 〈赤目〉を観察していた人々をかき分け、アキオを支える一団が三条の前に姿を現した。
 アキオの、足腰も立たない姿にさすがの三条も驚いて唸る。
「どうして? 怪我でもしたとか?」
「うんにゃ……ちょいと張り切りすぎただけさ」
 軽く手を振って笑顔を見せるアキオだが、三条の巨大な赤の瞳はごまかせない。
「〈人格波動〉の気配がほとんどない……まるで、別人みたいだ」
「そうか? あんたの知ってるアキオに間違いないんだが」
 だがアキオの軽口もそこまでだった。すぐに目を閉じ、頭を垂れる。
「……連鎖が収まったのは確認した。じゃあ……よろしく……な」
 気を失ったらしいアキオを慌てて抱えなおす救護班の面々を眺め、三条はベルトにつけられていたポーチを探す。ギルに手渡されていた注射器のケースだ。弥彦のドッペルゲンガーを倒した時に、変身を解除するべく使った薬液が入っている。
 アキオの脈を取っていた女性が、厳しい顔つきながらも大きな安堵の息を吐くのを待って声をかける。
「申し訳ないが、医者ならこいつを俺に打って欲しいんだ。こんな姿と指先なんで、自分では打てない」
 無言で睨んでくる女性に、三条は戸惑いながら続けた。
「俺が敵じゃないのは、アキオさんが俺に後を任せた事でわかるだろ?」
 それでも女性は答えない。困惑した三条が、別の人物に頼もうかと周りを見渡した時だ。
「〈赤目〉の、〈フリーク〉……」
「知ってるのか?」
「私の弟が、貴方に殺された」
 意味がわからず沈黙した三条に、女性は叫んだ。
「あんたが言ったんだよ! 『次はお前だ』って! みっちゃんがどんな気持ちで聞いてたかわかる? どれだけ怯えていたかわかる? あんたの言ったとおり、ドッペルゲンガーがみっちゃんをバラバラにした、食べちゃった、そして〈特務〉に殺されたんだよ! 満足でしょ!」
 三条は柚実や弥彦の語っていた〈赤目のフリーク〉の話を思い出した。
 自分とは違った、〈マスター・フリーク〉らしき存在。〈フリーク〉を増やしている存在。
 弥彦が間違えたように、この女性も三条がその犯人――連続殺人犯だと間違えているようだ。
「アキオ様が助けてくれなきゃ、私もみっちゃんに……でも、元はと言えば、あんたがいるからでしょ! 返してよ、私の弟を返して! あんたが殺したんだから、あんたが返しなさいよ! あんたさえ居なきゃ、みっちゃんも私も、普通に暮らしていたのに!」
 騒ぎに気づいた〈西方協会〉の面々が掴みかからんばかりに接近してきた彼女の腕を捕らえて踏みとどまらせた。彼女も、アキオの文言が気になったのだろう。大人しく――しかし目つきは変わらずに、立ち止まる。
 三条は彼女の息づかいが落ち着くのを待ってから口を開いた。
「弟の仇を打ちたいなら尚更、俺を助けてくれ」
「なんだって?」
「アキオさんの事を信じてるなら、アキオさんが信じる俺を信じてくれ。アキオさんを信じてるならわかるだろ? この人が、あんたの弟を殺した犯人に協力して、こんなになるまで頑張るはずがないだろ? そして証明させてくれ。俺が犯人じゃないって」
「犯人じゃない? じゃあ、誰が――」
「俺じゃないとしか言えない。俺も犯人を捜してるんだ。証人が必要なら、アキオを証人にする。仮にも〈西方協会〉を名乗る男が、世界を破壊しかねない化け物を仲間にすると思うか?」
 女性は何度か額を叩いた。自分の判断に迷っているのは確かだったが、すぐに結論が出たようだ。
 言い訳のように舌打ちを一つ。仲間に押さえられていた腕を振りほどいた女性は、三条の注射器を手に取った。
 ケースに入っていたメモを頼りにテキパキと準備する姿は、先まで叫んでいた女性とは別人のようですらある。
 疑惑を信頼で封じ込めた彼女の精神力に――予想していたよりもあっさりと事がおさまった事実に、三条の方が驚いた。
「……アキオさんの事、本当に信じてるんだな」
 注射針を三条の腕に刺し、部位が間違っていないことを確認した後、女性は呟いた。
「誰かを信じなきゃ立ち直れない時って、誰にでもあるでしょ? アキオ様は『元気になるまで俺を信じてれば良いよ』って言ってくれた。それだけで十分」
「……さっきから気になってたんだけど、アキオさんってそんなに偉いのか?」
 女性は薬液を押し込みながら、三条の顔を驚きで盗み見た。
「〈西方協会〉を名乗れるのは、たった数人。二桁もいない。それだけでわかるでしょ?」
 そんなものかと三条が呟いてる間に、膨れ上がった腕が一気に硬化する。
 分厚く着込んだ服のような違和感が三条を襲い、ボロリと崩れ落ちた皮膚を起点に指を突きいれ、一気に引き剥がす。
 ギルが施した時のように、全身が石膏のように固まる。それを壊して行くと、ごく平凡とも呼べる青年の体が現れる。
 それらの変化をはじめてみる〈特務〉をはじめとした〈E.A.S.T.s〉、〈西方協会〉の各陣営が、口々に驚嘆の声をあげた。
 石膏のように白く崩れ落ちた肉体とその中から出てきた人間を目の前で見せつけられた女性は、ポカンと口を開けていた。その手に残っていた注射器を回収しながら
「アキオさんなら『こっちの方が男前だろ?』ぐらい言うんだろうけどな」
 三条の言葉に女性は引きつった笑みを浮かべた。
 彼女の狼狽にはそっとしておくのが一番だと、三条は歩き出す。〈西方協会〉に所属している女性よりも、たった今傷つき狼狽し、そして涙をこぼす事でしかその苦痛と贖罪の方法を見いだせない〈特務〉の少女の方が気がかりだったからだ。
 今、彼女は大きな背を丸めてうずくまっている弥彦の側に立ち尽くしている。
 だが、二人の様子が明らかにおかしい。緊張に張りつめた間合いで、二人は視線を地面に注いだまま動かない。
 三条は、弥彦の周囲に漂う違和感に警戒しながら近づく。足音をやや高めにして接近を知らせ、驚かせないように小声で呼びかける。
「どうした?」
 三条の変化に目を奪われていた〈西方協会〉や〈E.A.S.T.s〉、そして今後の行動について協議を重ねていたクニミや一裕は、この二人の様子に気づいていなかった。
 三条は弥彦の抱えている遺体に目をやり、そして、その遺体をどこで見たのか思いだそうとした。
 そう、それは――柚実を襲っていた〈フリーク〉だ。横顔に見覚えがある。
 だがそこで三条は気がついた。柚実に振り返る。彼女の目には怯えと期待が漂っていた。少なくとも、今の彼女は泣いてなどいなかった。安堵すらあった。
「……弥彦、なのか?」
 頷いた柚実の返答に、三条はもう一度、遺体を確認する。
 三条が潰した顔の上半分。
 それはすでに額の辺りまで確認できるほど再生されていた。
 弥彦の能力――三条はそう理解した。
 能力者としての弥彦の能力――どれだけ、どんな強さで発動されるのかわからないが、肉体の再生に基づく能力なのは確かだ。
 これが弥彦の望んだ力なのかと、三条は一心不乱に遺体を抱える弥彦を見下ろす。早回しのビデオのようにジワジワと、無くなっていた頭部は頭頂めがけて閉じてゆく。
 彼の望みは、死者を生き返らせる事? いや、弥彦はそんな単純な男だろうか? 死体を再生しているのは、おそらく副次的な能力に過ぎないだろう。
 ならば、彼が望んだ真の力とは?
 いや、それよりも先に片づけなければならない事がある。
「だけど、柚実ちゃん……」
 友人の遺体が修復される事に希望を見いだしている彼女の期待が、大きくなる前に釘を刺そうとする。
「わかってます」
 柚実はぎゅっと、自分の両手を祈るように重ねた。
「生き返るとは思ってません! でも、この子、私の後輩だったんです。巻き込まれて死んじゃって……なのに、顔もないままだなんて、可哀想すぎるから――」
「わかってるならいいよ」
 一度言葉を切って、三条ははっきりと告げた。
「君の知り合いだとは知らなかった。興奮して、つい……壊さなくてもいいところまで破壊していた。本当にすまない」
「え?」
「一度助けた君が、目の前で殺されるなんて耐えられなかったんだ。気がついたら過剰に攻撃していた。すまない」
 柚実は黙ってうつむいた。
「三条さんは、ずるい。ずるすぎます……」
「……そうか」
「弥彦さんも、優しすぎです」
「弥彦はそうだな」
 一心不乱な弥彦に、二人の会話は届いていないようだ。顔が終わり、そしてゆっくりと髪が伸びてゆく。
 黙って見守る二人の様子に気づいた一裕が近づいてきた時だ。
 弥彦は顔をあげた。自分でも、自分のやった事が信じられないのだろう。
 〈フリーク〉の血と泥で汚れた顔で周囲を見回した。
 柚実の感謝に潤んだ目を見て、疲労ばかりの声色で呟く。
「君がこれ以上泣かないようにって……頑張ったのになぁ……」
 昼に対面した時と全く同じ形をした美雪の遺体が、そこにあった。




 そろそろ時間だよと、酒上生が妻に囁く。
 頷いた酒上誓子は、ギルへ挑戦的な声を張り上げた。
「先生、市街戦も落ち着いたようですし、そろそろこの突発的な集会の解散を宣言していただけないでしょうか? 私たち、出かけなきゃならないんです」
「この状況で、ダンスパーティーか?」
「政治的な取引って奴ですよ」
 木伏は、酒上夫妻がそろって正装に等しい姿である事から、相当高位の政治家たちと、〈軍部〉内で開催される会合に出席するのだろうと推測する。
 ギルがレザミオンと呼びかけるレイムーン大佐は、ゆっくりとソファから立ち上がった。控える二人がそれに続く。
 銀髪の美丈夫は、先の怒りから立ち直ったのか、冷静に言葉を紡ぐ。
「予想外の事態になってしまいましたが、ではまた、続きは明日の夜に」
 トレイル師が皮肉げな笑みを浮かべて、主の発言が終わると同時に、黒い杖で床を鳴らす。
 三人の足下に一瞬だけ光の円と複雑な文様が広がり、すぐに消える。その光が薄れると同時に、三人の姿も消え失せていた。
 ミツヤはそれを見届けた後、ギルに振り返る。
「明後日までにアキオは回復させます。ここで計画や人員の変更を行うのは、小隊としても書類上の問題としても、面倒な事が多すぎる」
「ただの疲労じゃないだろう。どうするつもりだ?」
「三大聖霊を使います。解放度数を広げて、アキオ自身の〈人格波動〉が正常値に回復するまで肩代わりさせます。相互作用で回復が早まるだけでなく、魔術の不安定さもカバーできる」
「この状況で、魔術的な刺激は御法度だとわかった上での発言だろうな?」
「聖霊の暴走なら心配ありません。元よりアキオと彼の聖霊の関係は、我々と違って非常に良好ですから。それに〈皇帝〉の器はそんなに小さくありません。アキオの空間魔術以外の魔術の未熟さは、彼の現実主義に基づく意図的なものですよ? キャパシティは我々と同等である事をお忘れ無く」
「なるほど……もちろん、聖霊解放と経過観察は、閉鎖空間でやるんだろうな?」
「ご不満でしょうか?」
「いや。だが回復するまでで構わん、ダミーを用意しておけ。魔術師を一人、〈特務〉専用病棟に一人放り込んでおかないと、上層部がヒステリックになって困る」
「了解しました、明日の朝までに派遣しておきます。では私も……明日の夜まで、ごきげんよう」
 最後の最後になって、ようやく安心できたのだろうか。それとも木伏に対するサービスだったのか。以前に見かけた時と同じ、ほっとさせるような笑顔で手を振り、いつもどおり、扉をくぐるようにするりと姿を消した。
 同時に、目の前のモニターに動きが現れる。
 弥彦たちの近くで待機していた〈西方協会〉が、一斉に膝をついたのだ。
 彼らの中心に立つのは、たった今まで、この酒上家のリビングで会話し、しかも木伏に手を振って消えたミツヤその人だ。
 ミツヤはぐったりとしたアキオの身体を受け取り、二度、確認の為にか頬を叩き――納得したようだ。
 そのまま、予備動作もなく、するりと空間に消える。
 ギルとの会話が正しければ、ミツヤが責任をもってアキオを動ける状態にまで回復させるということだろう。
 あの陽気とも呼べる〈西方協会〉の空間魔術使いが、ほんの一時でも自分たちの前から消える事は、木伏になんとも言えない不安を抱かせた。
 それら一連を見守った上で。
「我々も準備に戻るぞ」
 ギルがゆったりと一歩を踏み出した時だ。
 ソファに腰をおろしたままの誓子が、どこか怒ったように声をかけた。
「先生ほどの錬金術師なら、この〈空間崩壊〉手前の状況で立っていられるはずがないわ。どうやって動いているのか、教えていただけますか?」
 ギルは足を止め、わずかに肩をすくめた。
「見くびられたもんだ」
「見くびってるのは先生の方です」
 意味がわからず黙っている木伏の様子に気づいたのか、誓子は意地悪く笑ってから答えた。
「錬金術師の奥義は、自己と世界の融合と変化。ギルほどの錬金術師がどれほど深い段階で世界の〈人格波動〉と融合しているのか、十分想定することはできるんです」
 説明する誓子の言葉には、優越感にも似たものを感じた。
 だが何よりも――自己と世界の融合――木伏には想像のできない話だ。
 ギルを見ると、あいかわらず虚ろな目で、あらぬ方を眺めている。
 もし間違っているとすれば、ギルの事だ。訂正してくるに違いない。
 ならば、嘘ではないのか。
 誓子は時計を気にする夫を横目に、話を続ける。
「〈空間崩壊〉が世界をバラバラにする現象なら、その手前の段階とは、先生の体中に無数のヒビや切れ込みが入れられている状態に等しいはずです。修復不可能な傷と絶え間ない痛み、他人には見えず鎮痛剤も効かない〈人格波動〉の傷……普通の人間なら、精神が崩壊していてもおかしくないはず。歩いているだけでも不思議なのに、こうやって話せることも信じられない」
「お前が思っているより、私と世界の融合が進んでいない可能性があるぞ?」
「〈赤目のフリーク〉が出現している以上、そして傷ついている以上、先生は彼の状況を調べる為に錬金術による治療を開始しているはずです。〈赤目のフリーク〉ほどの異物なら、融合レベルも高くなければ、治療に至るほどの変化を望む事はできません。『埋葬』の段階で、相当融合しているはずです」
「泥棒猫のわりには、よく勉強したもんだ。誉めてやろう」
 誓子は鼻で笑うギルを無視して、きっぱりと言い切った。
「このままだと、世界が終わる前に、先生が死にます」
「やれるもんなら、やってみるがいい。殺してみろ」
「それは〈フリーク〉に言うべき台詞では?」
「〈フリーク〉にだって色々あるさ。〈赤目〉も、ああ見えて繊細なんだぞ? ブチ殺してヤリたいぐらいにな」
「どういう意味でしょう?」
「さぁな」
 意味深に首を傾げてみせるギル。笑うように、そして歌うかのようにリズミカルに呟く。
「だが、世界は絶対にお前のものにはならんさ。私が抜けた世界の亀裂を埋められるような力が、お前にあると思うか? 誰かを憎まなければ一人で立っても居られない女が、私という存在を亡くした時のお前が、世界の沈黙に耐えられるか? 世界の喧噪に耐えられるか? 世界の痛みをその身に受ける事ができるか? 断言してもいいぞ? お前に私の代わりは無理だ。世界中の男をたぶらかしたとしても、私の世界を奪うことはできない。なぜならお前は……ギル・ウインドライダーじゃないからだ」
 怒りのあまりか。
 沈黙した誓子に、とどめとばかりにあざ笑う錬金術師。
「お前には、無理だよ、誓子」
「先生」
 初めて怒りで顔を歪ませる誓子。
「私は忠告したまでです、そう笑ってられるのも、今のうちですよ」
「そっくりお前に返しておこう」
 退出の歩みを再開したギルに、酒上参謀が会釈する。その後に続こうとした木伏の耳元へ、誓子が囁いた。
「気をつけなさい……ギルの側に長くいると、不幸になるから。男でも女でも変えられてしまう……死人にね」
 誓子の言葉が途切れ、木伏は彼女の顔を睨む。
 いや、睨むつもりはなかったのだが、気がついたら敵意が顔に現れていたのだ。
 ギルが本来ならば立っていられないほど苦しんでいるはずだと言ったのは、目の前の誓子だ。だが、同じ口でギルから離れろという。
 ギルは否定するだろう――だが、ケガをしているだろう人間を放っておけといわれて、素直に引きさがれるような木伏ではない。
 仮に自分が死んでしまうとしても、それで引きさがれるぐらいなら、弥彦と二人きりで〈フリーク〉退治の任務になど赴かない。
 自分が倒れたとしても、後に続く者がいるはずであり、それまでは自分の能力を全力で行使し、任務を全うする。それが〈特務〉だ。
 ギルの部下としてギルの供を任務として与えられている今、学者の言葉に惑わされるわけがない。
 だが木伏の怒りは、誓子の満足げな顔に吸い込まれて消えた。
「では先生……後ほど、別件でご連絡さしあげますので、よろしくお願いします」
 ギルは歩みも止めず、背後へ向かって声を張り上げる。
「別件だと?」
「ギル・ウインドライダーが、どうしてこの状況で動けるのか、個人的に教えていただきたいんです……昔みたいに。かまいませんよね?」
 鼻で笑ったギルは、木伏が横に並ぶのを待ってドアノブを握った。



 〈本庁〉への道は交通規制によって遠回りを余儀なくされており、ギルが〈西方協会〉に用意させていたレンタカーで移動していた二人は、渋滞の中で立ち往生する羽目になった。
 ギルはシートを倒すと横になり、〈本庁〉に到着したら起こせと一方的に言い放つ。
「もしもだが――」
 目を閉じながら、彼は力無く告げた。
「独り言を言っていたとしても、無視しろ。良いな?」
「独り言?」
「二度も言わせるな」
「……つまり、寝言の事ですか?」
 言ってしまってから、相手がその類の訂正を嫌うかもしれないと考えたが、結局返答はなかった。
 ノロノロと動く車両にあわせて動きながら、木伏は一日を振り返る。
 あまりにも多くの事件が一日のうちに起こってしまい、どんな風に朝がはじまったのかすら、思い出せなかった。
 配給される装備や簡易食料や寝所の確認、受け取り場所など、庶務的な処理を淡々とこなしていた午前中。
 唐突にギルが立ち上がり、車を出せと言った事。
 指示された場所に三条が居た事。
 〈西方協会〉の能力者三人の襲撃。
 ギルの殺害、その時の言動。そのギルを三条が殴った事。
 酒上誓子の元に集った、高位の者達。
 その言動。市街地の戦闘を眺めているしかできなかった事。
 そして――。
 そして、ギルが本来ならば話すことも困難なほどに疲弊しているという話。
 どこまで信じれば良いのか?
 どこまで、ギルを信じれば良いのか?
 そして、信じるに足りる材料など、自分に見つけ出せるのか? 『無意識の目』など、ギルに関しては全く無意味だ。
 あまりにも、無力だ。
 三条に眼鏡を破壊されたまま、裸の顔を晒しているギルの顔を盗み見る。
 平凡な顔。街中ですれ違っても、絶対に気づかない顔立ち。見かけても、絶対に忘れてしまう顔立ち。
 この顔をギルという妖怪のものにしているのは、彼の放つ表情だ。
 その表情のない今、この人物は本当にギルなのかとすら思う。
 どこにでもある顔。名前が西方風なだけに、勝手にそう思いこんでいたが……よく見れば、東方風でもある。
 いや、逆だ。どこに血のルーツがあるのかすらわからない顔立ちなのだ。どちらでもあり、どちらでもなさそうな。
――世界と融合している男?
 誓子の言葉を信じているわけではない。だが、彼が世界であるならば……唯一無二という意味では、どこにでもありどこにでもないのも当然ではないか。
 木伏は思い出す。この男が、襲撃者達に言い放った言葉。


「まだわからないのか? お前はこの私を殺そうとしたんだぞ? 間接的にでも、この私、ギル・ウインドライダーを、だ。それだけでこの世界の大いなる損失だと何故わからない? この私が貴様らの世界を救ってやるんだ、この私が貴様らの神なんだ。それがわからない奴は空間崩壊を待つまでもない。今、ここで、死ね!」


 神だと名乗った男。
――なにがなんだか、わからない。
 だが、木伏にも一つだけわかっている事がある。
 この男は、死んではならない。
 どんなに彼が人を殺しても、彼を憎む者が増えようとも。
 彼は世界を救おうとしている。それは事実なのだ。自分が生きる為にも、自分の苦痛を終わらせる為にも。
 利己的な理由かもしれないが、自分の知識の全てを使ってでも〈赤目〉を助け、〈特務〉を助け、そして己を助けようとしている。
 誓子が信じられないという苦痛の中でも、こうして行動を続けている。
 その彼が、なんの見返りもなく死ぬのは、おかしい。
 それは木伏の望んだ世界の在り方ではない。
 彼は対価を得るべきだ。
 せめて――この敵と苦痛だらけの世界から、一時だけでも安らかな眠りの時間を。
 それを与えられるのが木伏だけなら、この車両の中だけなら、渋滞も悪くはなかった。
 だらだら続く渋滞の中、木伏は〈特務〉の回線の音量を耳に届くギリギリの範囲まで絞り込み、今日一日に入ってきた情報を何度も反芻していた。



 〈本庁〉の地下駐車場について振り返ったが、ギルはまだ起き出しそうになかった。
 眠っているというより、誓子の言う痛みで気を失ったのだろうかとすら考えた。
 どうしようかと躊躇したが、無理に起こすのはやめようと考え直す。地下の駐車場は冷えきっていて、エンジンをかけたままでも冷気が染み込んでくる。木伏は自分の〈特務〉制服の上着を脱いだ。そっとそっと、ゆっくりとギルの上に掛けてやる。ギルが自然に起きあがるまで、見守ろうと思ったのだ。
 ギルが言っていた「独り言」も気になった。
 寝言だとして、一体何を言い出すというのか。
 それが彼の、過去に通じる言葉ならば――彼を更に深く知る為に、どうしても聞いてみたいと思ったのだ。
 そんなにまでして彼を知りたいのか。
 木伏はシートに深く身をもたせかけながら、ため息をつく。
 この好奇心は、何に基づくものなのか。
 恋ではないと、木伏は確信している。これまで自分の身に起こった恋愛感情の、どれにも当てはまらない感情。
 どうすれば、彼の全貌を知ることができるのか。
 彼が隠し続けている知識や本音は?
 それらを手に入れたいというより、目撃したいという感情は、どちらかと言えば母性に近いと思う。
 彼からの見返りが欲しいわけではないのだ。ただ、ギルが恐怖を植え付ける為に用いるあの表情が、あの冷笑が、本来ならばどんな顔であるのかを知りたいだけなのだ。
 木伏はもう一度、そのとらえどころのない寝顔を目にしようと振り返る。
 その瞬間、ギルが飛び起きた。
 木伏の視線をすぐに捉え、胸ぐらを掴む。いつもの冷笑で、息が感じられるほど顔を近づけてくる。
 頬に感じた吐息の、想像以上の冷たさに、木伏はぞっとした。たった今まで眠っていた人間の吐息が持っているべき温度とは思えなかったからだ。
「どこだ? 答えろ」
 息ができなくなる前に、その腕を掴んで、できるかぎりゆっくり落ち着いて答える。
「〈本庁〉の駐車場です。〈フリーク〉出現の後始末で発生した渋滞に巻き込まれて、時間がかかってしまいました」
 車内の時計で時間を確認すると、木伏の言葉を信じたのだろう。冷笑をわずかに緩め、ゆっくりと手を離した。
「何か、言っていなかったか」
「何も」
「隠しているとわかったら殺すぞ」
「隠すもなにも。息一つすら聞こえませんでした」
 木伏の返答に、ギルはハッと息を吐いて笑った。木伏が毛布代わりにかけていた上着に気づき、木伏に突き返す。
「今日はここまでで良い、車を返却したら帰宅しろ。一日中、余計な事に遭遇しすぎたが、今日知った事は、私が口にするまで誰にも話すな。わかったな?」
「それは、三条さんにもですか?」
「当たり前だ」
「心配させたくないと」
「あれは意外に動揺しすぎる。〈マスター・フリーク〉を前に敗北したというだけでもかなりの動揺だ。ここで、自分のせいで私が体調を崩したと知ったら、また拗ねて山に引きこもるかもしれないだろ?」
 ギルの言いようが本気なのか冗談なのか、木伏には判断つきかねた。
「私はあなたの体が心配です。原因が酒上博士のいうとおりか、別にあるのか知りませんが、とにかく心配なんです」
「そうか」
 それ以上答えるつもりがないのは、冷笑のまま動かない表情からも伺えた。
 返却された制服を受け取ると、ギルは顔を変えずに黙って車を降りた。
 だが、その足下はおぼつかない。ひどくゆっくりと、そして不規則に左右へ揺れている。泥酔した人間のようでも、入院中の重傷患者がさまよう姿のようでもある。
 木伏は『無意識の目』を発動。腕のモニターにギルの背を映し出す。
 彼の姿が駐車場をゆっくりと横切り、エレベーターの中で俯き、更に地階にあるギルの部屋の扉を潜るまで――ずっと見ていた。
 ギルは以前のようには振り返らず、木伏もギルが部屋に戻るまでしか確認せず。
 そして、黙って己の能力とモニターを切った。






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